人づくりちょっといい話55
夏休みの父の背中
夏休みというと、思い出すのは海の中の父親の背中です。父は真鶴の出身で、泳ぎが非常にうまかった。ところがその泳ぎたるや、かんかい流といって小田原藩の侍が泳いだ泳ぎ方なんですね。私がそのかんかい流で泳ぐんで友人たちは笑うんです。しかし「武士の泳ぎ方を教えてやる」と言うと、シーンとして私の泳ぎを見てるんです。楽しい夏休みでした。
夏休みに入ったところで、お父さんお母さんにお願いがあります。お子さんと接する機会が非常に深く広くなってくると思うので、その時間を大切にしていただきたいんです。
父や母を描いた本で私が最近読んだ本に、日本経済新聞の元記者で論説委員をやっておられた石田修大さんが、父親の石田波郷さんのことを書いた『わが父波郷』があります。無駄のない文章で、淡々と出来事だけを綴った中で、結核に悩みながら素晴らしい句を作った一人の俳人の姿を見事に書き描いています。父親と著者との間にはあまり交流がないのですが、それだけに父親の眼差しや言葉、時には咳払いさえ覚えているのです。お父さんやお母さんが何気無く言ったことが、子どもには大きなメッセージとして心の中に突き刺さって、それが傷であったり潤いであったり、子どもの一生を決定する材料であることには間違いないですね。
川上哲治さんは年配の方でないとご存じないでしょうか。読売巨人軍で監督をされ、いわゆるV9を遂げた人です。現役時代は、入団してから引退するまでジャイアンツの選手で、一塁を守り、背番号は16、毎年リーディングヒッター。熊本県出身の素晴らしい男で、寡黙で、座禅を組んだり石を磨いたり、もっぱら自己形成に努めた人です。
川上さんも父親のことをエッセーに書いています。熊本にも浜松と同じように凧揚げ大会があるそうです。哲治さんが少年から青年になりかけの時に、広場で凧を揚げていると糸がほつれてしまいます。気が付くと後ろに父親がいて「かしてごらん」と言って、一生懸命に糸をほどこうとする。お父さんは長いこと、複雑に絡んだ糸と格闘しています。哲治さんがたまらず「お父さん、もういいよ。帰ろうよ。凧糸は家にたくさんあるし。それはそれで切って、真っすぐな所だけつなげばいいじゃないか」と言うと、父親が振り返って「いったん取り掛かった仕事は、なし遂げなければ男じゃないんだよ。よく覚えておけよ」とだけ言うんです。黙々と小一時間かかって糸を真っすぐにし、凧はもう一度揚がったそうです。
川上さんは「私は青い空を見ると、いつでもまず凧を思い出す。それから父親の『男はいったん取り掛かった仕事を最後までやり遂げなければ男とは言えないんだよ』という言葉を今でも思い出す」と書いていらっしゃいます。その後、川上さんは戦争に参加され、戦野をさまよい歩くのですが、お父さんの言葉は忘れなかった。「空」と「凧」と「父」という三つの風景が、川上さんの人格形成にとって大変な材料になっているんだなぁと思います。
草柳大蔵著「午前8時のメッセージ99話」(平成13年発行)より
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