しずおか文化財めぐり 「想像上で攻めてみたい。」城跡篇
動画に登場する文化財
掛川城御殿(かけがわじょうごてん)
所在地:掛川市
国指定・重要文化財(建造物)
嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて掛川城主太田資功によって再建された。7棟よりなる書院造で約20部屋に分かれる。現存する城郭御殿として貴重な建物である
横須賀城跡(よこすかじょうあと)
所在地:掛川市
国指定・史跡
小笠丘陵末端が遠州灘におちていく掛川市横須賀に横須賀城がある。天正3年(1575)長篠合戦の勝利をうけて、同6年、高天神城奪還を企図した徳川家康(当時浜松城に在城)が部将大須賀康高に命じて築城したものである。選ばれた地は小高い丘陵とその山麓の砂丘であり、西進すれば浜松、東進すれば相良に至る街道に面している。また現在は陸地化しているが、かつては海に直結する内湖に南面していたことが古絵図によって判明する。そのような水陸交通の要地を選び、北西約2キロの高天神城の喉元を扼したものである。
大須賀康高以降、大須賀忠政、[[渡瀬]わたらせ]繁詮(豊臣秀吉家臣)、有馬豊氏(同上)が城主となり、関ヶ原役以後大須賀忠政が6万石で再入部し近世横須賀藩が成立した。以後松平氏、井上氏、本多氏、西尾氏と城主の変遷をみて2万5千石の城として廃藩置県に至った。
遺構としては丘陵上の天守台、本丸、西の丸、北の丸、松尾山、砂丘上の二の丸、三の丸、また松尾山北東の大空濠がよく残っている。また城郭の北、西、南を画する堀跡があり、埋立がなされたところもあるが、玉石積の石垣遺構がよく残り、また隠し堀といわれる舟入状の堀跡は、入江に面し横須賀港をおさえていた横須賀城の特色をよく示している。
徳川氏が築いた横須賀城は既指定の武田方諏訪原城、武田・徳川方の争奪地となった高天神城とあわせ、武田方の進出と衰亡、徳川氏の成長過程を示す貴重な史跡であり、このような歴史的意義及びその良好な保存状況を考え、史跡に指定しその保存を図るものである。
二俣城跡及び鳥羽山城跡(ふたまたじょうあとおよびとばやまじょうあと)
所在地:浜松市
国指定・史跡
二俣城跡及び鳥羽山城跡は天竜川が山塊を抜けて平地に移行する転換点に位置する浜松市天竜区二俣に築かれた中近世の城跡である。両城跡(しろあと)の間には、寛政3年(1791)に河道が付け替えられるまで、二俣川が流れ、天然の要害を形成していた。二俣は天竜川水運と秋葉街道を通じて信濃・遠江北部と浜松(引(ひく)馬(ま))・遠州灘とを南北に結ぶとともに、東西には三河と遠江東部とを結ぶ交通の要衝で、有力武将が覇を競った場所であった。二俣城跡は南北300m、東西250mの規模で、堀切や竪堀がみられ、北の丸、本丸、二の丸、南の丸1.、同2.、西の丸などの郭(くるわ)から成る。鳥羽山城については『三河物語』に家康が武田氏から二俣城を奪還するために本陣を置いた場所とみえ、城跡は二俣城跡の南の南北350m、東西1000mほどの独立丘陵上に立地する。二俣城跡及び鳥羽山城跡は、戦国期に造られ、堀尾氏によって織豊系城郭として整備され、前者は軍事的拠点として、後者は居館として、機能を分化しつつ整備された様子をよく示す城跡である。
山中城跡(やまなかじょうあと)
所在地:三島市
国指定・史跡
小田原城西方防備ノ出城ニシテ天正十八年豊臣秀吉ノ軍ニ攻圍セラレ城将松田真長等戦死シ城遂ニ陥リ、以後廢城トナレリ字北條山ノ地域ニ本丸、二ノ丸、三ノ丸ヲ置キ岱崎ニ出丸ヲ設ク、壘壕善ク存シ舊規見ルベキモノアリ三ノ丸地ニアル宗閑寺ハ出丸ノ守将間宮康俊ノ女ガ亡父ノ菩提ヲ吊フ爲建立セルモノナリ寺内城将以下小田原方戰死者ノ墓及西軍戰死者一柳直末ノ墓アリ
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