第6回伊豆文学賞 佳作「伊豆の仁寛」
佳作「伊豆の仁寛」
櫻井 寛治
一千尺の丈山山頂には強い春の風が吹きわたり、コナラやウバメガシの林を激しく揺らしておりました。南を望めば天城の山々が緑に連なり、北に目を転じれば青くかすんだ箱根の連山と、山頂から白煙を吹き上げる神々しい富士山の姿が見わたせます。眼下の大仁の里は春霞に包まれてのどかに広がり、平野の中心を伊豆国一の狩野川が、南から北へ、大きくうねりながら白く輝いて流れています。山も里も、春の訪れを待ちわびたかのように、濃淡様々な緑を今いっせいに芽吹かせようとしています。狩野川の向こう岸に見下ろす仁寛さまの小さな庵も、さかんな新緑に埋めつくされそうになっておりました。
私が仁寛さまとめぐりあい教えを受けた庵は、大仁の里三福村の西端、狩野川寄りに広く張り出した台地の上に建っておりました。古くからの醍醐派寺院と伝えられており、村人たちは親しみをこめて庵寺と呼んでおりました。気候が温暖で水に恵まれ、地味の豊かなこの地にははるか昔から人々の暮らしがあったようで、仁寛さまが庵寺の庭から掘り出されたという古代の土師器や黒曜石のやじりを見せてくださったことが、ふと思い出されました。
「おん さらばたたぎゃた はんな まんなのう きゃろみ」
山の木々を震わせる風を切り裂くように、真言が響きました。山上に五体投地された仁寛さまが現世最後の修法を勤められるべく、今、諸仏との対峙を始められたのです。そしてこの修法が、私に対する密教最奥秘法の伝授であることは、未熟な私といえどもよくわかっておりました。目もくらむような貴顕の家に生まれ、仏教界の大きな期待を担いながらも数奇な運命の末に伊豆に流され、この地で外法の私を最後の弟子として慈しんでくださった師のことが、そして師と出会い、帰依してひたすら密教の教えを受けた日々のことが、私の脳裏を駆け巡ります。
私は武蔵の国立川の、名もない陰陽師の家に生まれました。物心つかないうちから父の後を追い、祈祷や卜筮、占星などをしながら諸国を歴訪しておりました。陰陽師と言っても官立の陰陽寮に属するような上級のものではなく、深い教学の理論を学ぶ機会もありませんでしたから、世間からは神通力を持った異形のものと恐れられる反面、時に蔑みの目で見られることもありました。
時は末法の到来を迎えており、万年春とうたわれた平安の世にも寒々しい風が吹くようになっておりました。末法とは人災天災こもごも起こる、想像を絶する悲しむべき世のことで、仏法の力は失せ、苦悩する衆生を救うことは不可能となると言われておりました。たしかに、みちのくの長いいくさは終わったものの、局地での争闘は果てしなく続いており、租役の負担に耐えきれずに山奥に逃げこんだ大勢の逃散人が、いつの間にか賊徒と化して各地に跋扈しておりました。この時代の農民は口分田の田租のほか、調・庸や徭役、あるいは兵役などのいろいろな重い義務を課せられていたのです。武蔵の国もすさんだ空気の渦中にありました。凶作は繰り返され、人々は疲弊しきって、平和な暮らしと心の平安を渇望しておりました。陰陽師は人心の機微を察するに優れておりましたから、人々が何を考え何を欲するかもよく心得ておりました。しかし若年の私には、人々に説く理も智も備わっていなかったのです。都から遠く離れた武蔵の国には、父以外に教えを請う師もおりません。仏僧でも修験の行者でもよい、人々を救うための法を示してくれる方にめぐりあいたいと念じながら、私はひたすら奥深い山中を駆け巡り、一人きりの苦しい修行に明け暮れていたのでした。
秩父山中を回行していた時でした。この地の同輩が、都の高僧が帝に不軌をなし、その咎で伊豆に流されてきた、と教えてくれました。聞けばその方は醍醐寺の仁寛といわれる方で、阿闍梨という真言密教僧最高の地位にあり、大夫ともよばれる深い学識と法力をお持ちの方だと言います。瞬間私は、このお方に教えを受けたい、と思い定めたのです。ただちに夜を徹し、一路伊豆に向かいました。年もおしせまった頃でした。
伊豆の国大仁の里は、少し前までは国府が置かれていたほどの実り豊かな里と聞いておりました。四方をなだらかな山で囲まれ、中央に狩野川とその支流の深沢川とが何万年もかけて作った平野が広がっています。川岸に沿ってたくさんの稲田が拓かれ、稲田のほとりに五戸、六戸とかたまって茅葺の民家が建っています。山が近く木材が豊かなためでしょうか、私の故郷立川の家々よりも軒が高く、土壁の家に混じって板壁の家も見えます。けれども今年の里は、沈みきっておりました。冬枯れのためだけではありません。夏から秋にかけての大旱魃で、井戸も泉も枯れ、田畑は乾ききって割れ、作物はおろか草さえ生えない不毛の地となってしまっていたのです。四方の山の木々も赤茶け、風が吹くと幾多の枯葉とともに黄色い砂塵が天を覆い、太陽も見えないありさまです。道を尋ねるべき里人の姿も見えません。こんな荒廃しきった土地で咎人の仁寛さまは無事でおられるのかと、不安が胸をよぎります。
大仁の里の中ほど、三福村のはずれまで来て、ようやく一人の女人の姿を見かけました。麻の小袖にヒラミという腰布を巻き、大きな水桶を運ぶ姿は若い農婦のようですが、細いうなじやなだらかな肩にどこか雅な風を感じます。久しぶりに人を見たような懐かしさを覚え、思わず女人の後を追うように歩いて行きました。女人は小さな森に囲まれて建つ古い庵に行き着くと、水桶を降ろして庭の仕事を始めました。しなやかな動きには無駄がなく、全身が躍動しています。小袖からのぞく日焼けした前腕や脛に、若さと健康がみなぎっています。荒れ果て疲れきった里を過ぎてきた私は、垣間見ただけで甘露を喫したような爽快感を覚えました。後で知ったことですがこの人こそ、失意と辛酸のどん底にあった仁寛さまを支え蘇らせた方、摩耶さまだったのです。摩耶さまに導かれ、私は生涯の師となる仁寛さまとの運命的な出会いを果たすことができました。
このページに関するお問い合わせ
スポーツ・文化観光部文化局文化政策課
〒420-8601 静岡市葵区追手町9-6
電話番号:054-221-2252
ファクス番号:054-221-2827
arts@pref.shizuoka.lg.jp