第6回伊豆文学賞 最優秀賞「夏の終わり」
最優秀賞「夏の終わり」
長田 恵子
「姉ちゃん、河津の村があんなに小ちゃく見えるよ」
イシは不自由な足を引きずりながら、前を歩く姉のハツに呼びかけた。ハツは、風呂敷包みを背にして前を行くハナとミチに気を遣いながらも振り返り、大丈夫だよとでも言うようにイシを見ながら頷いた。
「大丈夫か、足は……。辛けりゃあ辛いって言え。黙ってりゃあ、あっち行ったっていじめられるだけだぞ」
あっちとハツが北の方を指差して言ったのは駿東郡須走村で、同郷のハナとミチとハツはおなじ十九。昭和に入りここ三年、六月下旬には須走の富士講の宿で働くため、夏は浜仕事の合間に富士山麓の、かつては鎌倉往還の塩の道の中間にあり、富士山須走口登山道の宿場として、江戸時代から富士山信仰の富士講で賑わった須走へ出ていた。須走は沼津、小田原方面と甲州、信州との物資の中継地として、かっての賑わいはないにしても伊豆、沼津からは米穀、塩、酒、醤油、魚類、甲州からは綿、経木などが取り引きされていた。
「明るくなってきたな、ハツ。あとはお前らで行けるか。父ちゃん帰るぞ」
暗いうちに家を出、峠を上ってきたが東の空が次第に明るくなってきた。
「川沿いに湯ヶ野へ出、下田街道を修善寺まで行けば婆ちゃんちだ。あとは道、分かってんな。イシの調子を見て無理なら泊まらしてもらえ」
「あとはいいよ。もう三年目だ」
ハツは明るく手を上げた。
「おじさん、気ぃつけてな。母ちゃんに会ったら心配せんように言ってや」
ハナは幼い顔を今にも泣きそうに歪めた。どことなく大人っぽいミチも襟元を直しながら、去っていく黒っぽい影を目で追っていた。ミチの歳より上に見せている原因はその髪型だった。他の三人が真ん中分けの三つ編みに対して、ミチは全体的に上に上げその先を団子に引っつめ、紅い髪留めで止めていた。着物も同じ地味なかすりであっても、ミチはどことなく他の三人と違って大人っぽい雰囲気を漂わせていた。
「行くべぇ」
ハツは先頭になって歩きだした。日が出ると暑くなるし、梅雨明け後の照り返しで日中は気温が上がりそうだ。できるだけ涼しいうちに遠くまで行きたかった。おっ父はああ言ったけど、できることなら今日中に着きたい。そのために家を暗いうちに出たんだ、とハツはイシの右足を見た。
妹のイシは十六。ハツは同郷の漁師とこの秋所帯を持つことで須走行きは最後になり、自分の仕事を妹に仕込み、何とか自立のきっかけになればと思っていた。丈夫なハツと違って、イシは幼いときの怪我がもとで右足を軽く引きずり、やることも自信がなさそうで性格もおとなしかった。体は普通で何ともないが、自分の不注意で妹に怪我をさせたことで余計な世話を焼き、それが妹を甘やかすことになっていたと、ハツは家を離れる日が近づくにつれ、心を霧が重く覆っているような憂うつな気持ちになっていた。今年こそは妹を人並みにし、心おきなく嫁に行きたいと思っていた。ほうけたように父親の後ろ姿を見ていたが、我に返るともうその姿はなく、森が無気味に静まり返るだけだった。父親のあとを追いたい気持ちを押さえ、
「ハナ、ミチ少し休もうか。河津が見えるよ」
二人もハツを頼りにしているのか戻ってきてハツに笑いかけた。はるか下に河津の浜が広がり、南へ目を移すと白浜から爪木崎へ続く海岸線が広がっていた。
「おっ父、帰ったけどいいねっ」
ハツは二人が頷くのを見届けながら、念を押すように話し始めた。
「ねぇ、あたし、今度が最後だよ、須走行くの。所帯持つだよ」
「えっ、新吉さん?えぇなぁ」
ハナが無邪気に身をよじった。ミチも羨ましそうにハツを見返した。
「ごめんね。イシに仕事を覚えさしてぇだよ。来年からは頼むね。イシもしっかりやるだよ。わかったか」
ハツは胸元から半紙の包みを取り出し広げた。
「あっ、氷砂糖!いい?ひとつ頂戴」
ハナが真っ先に手を出した。イシはにぃっと歯を出し笑い、紙に包まれた白い結晶の幾つかに目を移した。どれにしようかなと選んでいるうちにミチがその中の一つを口に入れた。
「早くしな、どれだって一緒だよ」
半紙の中では曇り硝子のかけらのようなものがキラキラ輝いているように見えた。イシは半紙の中に顔を突っ込みそうに覗きこみ、迷いながらも真ん中にあった小さい一つのかけらを口に入れた。イシは舌の上で解け出した甘味に酔い、全身で喜び、小さい幸せさえ手にした。ハナとミチの足取りさえ踊っているように見えた。
イシが生まれ育ったところは河津浜から少し離れた小さな漁村で、ハツは秋から初夏までは父の漁の合間に地元の魚の加工場で働き、暇な夏に須走へ出ていた。母はイシの足のことを心配し、村の寺の奥さんにお針を習わせ、家の繕いものはイシの役目だった。
イシは須走で働くと聞かされたときから、ある一つの喜びを感じていた。それは若い娘ならみな同じ身を飾ることだが、足の悪いイシだけにしか分からない、その小さな足に赤い鼻緒の下駄を履かせることだった。イシの頭の中では赤い鼻緒が二匹の蝶のように自由に宙を舞っていた。イシはその夢を早くかなえたいと思い、すり減った下駄を力いっぱい後ろへ蹴った。
ハツは、イシが浜の女の気性の荒さを持っていることを知っていた。この子ならできる。お針は勿論、料理も洗濯も始末も一通りのことはできると信じていた。それは自信を持って良いことだった。引きずるだけだが、こうして皆のあとを付いてくることもできる。何ごとも足のせいにしなければいいのだ。ハツは希望が湧いてきた。妹の顔も生き生きとして見えた。娘の四人連れと見ていたずらに声をかけてくる男たちもいたが、ただ下を向いて無心に歩いた。ゴオゴオという川の音に話し声もかき消された。
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