第6回伊豆文学賞 優秀賞 「黒鼻ホテルの小さなロビー」
優秀賞「黒鼻ホテルの小さなロビー」
山本 恵一郎
けだるい午後の陽が、机半分と左のひざにあたっていた。
ぼくは地図の等高線を見つめていた。
何の音ともいえない外の音が、遠くやさしい音楽のように聞こえていた。その音楽に合わせて、等高線がゆっくり息をし始め、教室が風船のようにふくらんでふわりと宙に浮いた。
ふいに、先生がピストルを持ったスターターのように手をあげた。白墨が落ちて二つに割れ、小さな煙があがった。
先生が黒板のまえを教室の隅まで歩き、立ち止まり、天井を仰ぎ、向きを変えまた歩き始める。
まえの方の席で誰かが教科書の朗読を始めた。
幕があがったのだ、とぼくは意味もなく思った。
目の奥のひたいの裏の小部屋あたりで、夢が始まりかけていた。
先生が白墨をひろって黒板へ投げた。
もう朗読は終わっている。
ぼくの隣の生徒が立ちあがり、わめくように何か言った。
先生が黒板に「族」と書き、その横に、家、民、と字を添えて何か言い、拳で「族」の字の上を叩いた。
外の音は聞こえているのに、黒板を打つ音は不思議に聞こえない。
音を消したテレビのようだ、とぼくは思った。その音を消したテレビに、ふいに、お客の幕の内を電子レンジへ入れている父ちゃが現れ、顔をあげてぼくを見た。
ぼくと母ちゃが予告なく入って行った時、父ちゃはびっくりしてお客に渡そうとしたお釣りを落とした。
父ちゃはレジスターを開け、お釣りを渡すと、パンの棚の整理をしていた店員を呼んでレジをやるようにいい、床の硬貨はそのままにしてドアを開け奥へ入った。
こっちへ来い、と言ったのだとぼくは思った。母ちゃもそう思ったようだった。ぼくたちはドアを開けて入って行った。
しかし、父ちゃはもうどこにもいなかった。妙子が座敷に立っていて、出て行ったよ、と言ったのである。
父ちゃが、小さなホテルをやっている六浦の家にいた頃は、厨房のことは父ちゃがやっていた。
伊豆沖の地震さわぎからお客が減って、どこかに別な職を探してもらいたいと母ちゃが言い出したときから、不機嫌になって厨房へも入らなくなってしまった。それでも家を空けるようなことはなく、ぼくとよく海上保安庁のまえの犬走島の防波堤へ、小鯵釣りに行っていたのである。
父ちゃがいなくなったとき、母ちゃはあちこち電話をかけまくったあげく、小田原のコンビニにいることを突きとめた。
母ちゃの従姉妹で、高校の同級生だった妙子は、五年前に夫が癌で死んでから、引き継いだ酒屋を一人でやっていた。しかし、量販店におされて経営は苦しく、転業を考えていたらしい。
そんな時、コンビニの本部というところから人が来て、酒屋をコンビニにするように勧められたのである。
妙子は去年、店を改装してコンビニを開店した。
その妙子と、どこでどう連絡をとっていたのか、父ちゃは黙って家を出て、妙子の手伝いをしていたのである。
座敷で母ちゃと向きあった妙子は、いずれ返すから暫く貸してもらいたい、と言った。
品物ではあるまいし、と母ちゃはつかみかからんばかりにして言ったが、蛙のつらに小便、と母ちゃが後になって言ったその顔で、妙子は逆に母ちゃを罵り、母ちゃが投げた湯飲みが妙子の顔をかすめて、店のドアのガラスを砕いたのである。
その音で我に返った母ちゃは、急に弱気になってしまい、警察を呼ぶ、とわめき出した妙子の勢いに押されて、形勢は逆転してしまった。
そして、父ちゃは当分のあいだ小田原にいることになってしまったのだった。
妙子はずうずうしい。妙子に父ちゃを盗られた、と母ちゃは小田原の駅で泣いた。
窓のガラスに蜜蜂が這いあがってきた。敷居にとまっていた奴だ。
鉛筆で叩いてやろう、と思って身をのり出しかけて、授業中だったことを思い出した。
黒板には随分字が増えていた。
グラウンドの方で笛が鳴っている。
先生がトレーニング・パンツのゴムを両手で引っぱり、中へ風を入れながら最前列の生徒に話しかけている。
蜜蜂が敷居へ落ちた。
先生があごの不精髭をなでながら首をまわしている。うつむいて鼻毛を抜いた。
最前列の生徒があわてている。濡れた毛が飛んでくるのを恐れたのだ。
幸い、先生は鼻毛を持ったまま机のまえへ戻った。
ちょうどその時、チャイムが鳴った。ぼくは感心してしまった。先生の頭の時計はぴたりとチャイムに合っていた。
先生が教室を出て行った。
ぼくは腕組みを枕に、机に伏せて目をとじた。
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