第6回伊豆文学賞 佳作「蜆の唄」
佳作「蜆の唄」
中村 豊
一昨年妻の葉に先立たれてからというもの、日常の営みに彩りが失われてきた。日めくりカレンダーを几帳面に剥がすように一日一日が単調な時間に区切られる。葉の手で支えられていた躰の心棒がぐらつき、何事にも気張ることがなく、時間を何かで充たそうとする気持ちが薄まった。これも寿命を越えて生き続けたせいであろうかと、喜寿を迎えてその思いが日増しに濃くなっていく。体調の悪さを訴えると、医者は大抵の場合「潜在的なストレスでしょう」と軽く片を付ける。成程、そういう手合いがあったかと感じ入る。心に軋轢を生じるトラブルがなくとも、生きていること自体がストレスの要因になるらしい。医者は日めくりカレンダーの日常を指摘したのであろう。
暖かい冬だった。老齢には天の恵みである。とは言っても手放しでは喜べない。温暖の切れ目から隙間風のように入り込む寒気は身を切るほどに厳しい。躰に罅割れが生じる。病気も同じである。息災の日々の割れ目に忍び入る。
三月、テレビが桜前線の情報を流し始めた。今年は異常気象のため開花が二週間早まるだろうと報じる。無事この冬も越せたかと安堵した矢先のことである。眩暈に襲われる。明け方小用に立ったとき足元がふらついた。風邪のやつ悪さしやがって、とそのまま眠りに入る。目覚めて何事もなかったが、昼過ぎて頭の一点がずきんと痛み、表皮がぴりぴりしだした。不快な痛みである。暖を取ってレコードを聴くうちにうつらうつらまどろ微睡んだ。
翌朝は風邪の症状が一段と昂じた気分なので食事の前に漢方薬を服用する。新聞に目を通し十分も経たぬうち突然くらくらときた。起きてはいられず食堂の絨毯の上に直に横になる。天井が波打ち、周囲が回り出す。一時間ほど眼を閉じていたら気分が落ち着いてきた。起き上がって牛乳をコップに一杯飲み、寝室のベッドへ行って一眠りする。夕方もう一度軽い眩暈があり、それが風邪によるものか、あるいは、かつて経験した血圧の低下に起因するものか判断に惑う。翌日は朝から頭が重く、時折足元がふらついた。夜八時頃、食事の後片付けを済ませたときである。激しいやつが襲ってきた。横になったまま身動きできない。このままではいけないという意識が働く。腹這いで暖房機のスイッチを切り、階上の寝室まで階段を這い上がる。ベッドに倒れ込むと、胸苦しく、吐き気を催した。周章てて脇にあるプラスチックの塵箱に頭を突っ込み、食べたばかりのものをすべて吐き出す。暫く胸苦しい不快な気分に悩まされ、そのあと眠りへと陥った。目覚めたのは夜半の一時過ぎである。
朝になった。立ち上がると足元が覚束ない。タクシーを呼び、懇意にしている医者の許へ駆け付けた。その日から四十日の入院生活が始まる。
診断によれば、脳の血管に詰まった個所が幾つかあり、それが眩暈の元凶らしい。医者は「脳梗塞の前駆症状です」と事も無げに言った。二週間の点滴のあと四、五日様子を見て退院の見通しが狂ったのは老齢のせいであろう。点滴が終わる頃から脚が怠く、萎え、それが夜通し続くので気持ちが苛立ち、不眠に苦しむ。脚の血流が悪いところに坐骨神経痛が重なり、潜在的ストレスまでが加わるという老齢に付きものの合併症である。その治療で入院が長引いた。
眠れぬままに想うことはさまざまだが、どの想いも流れ行く先は「死」であった。
死とは何であろうか。意識が及ばぬ領域に意識は入り込めない。迷路の中を踏み迷い、迷いに迷った挙げ句が出口は見出だせない。死に問い掛けて、真っ先に浮かんだのは葉の死である。あまりに唐突な死であった。衝撃的な死であった。切ない死であった。だから死は迷路の中に姿を晦ましたのか。葉はどんな苦痛を道連れにして迷路の中に入り込んだのか。
わたしは眩暈で眠りに就いた数時間のことを考えた。あのまま死んでいれば、死は眠りの続きである。安らかなものだ。だが、それは違う。目醒めたからそう言えるのであり、生死を分かつ瞬間にどんな苦痛や悪夢が入り込んだか分かりゃあしない。安らかだなんて思うのは目醒めた者の独り善がりではないか。死はそれほど生易しいものではない。死は永遠の眠りであるとほざくのは、贋物を掴ませる大道香具師の口上であろう。死に向かって疾走する葉の顔が胸を圧した。
梢が病室に現れたのは入院して三、四日経つ頃である。
「ごめんなさいね。こんなときにお役に立てないで。葉さんに申し訳が立たないわ。ひとりで入院させるなんて、大変な目にあわせてしまって。」
ベッドの脇でしきりと謝った。
葉の死後、梢は何かと役に立ちたがった。わたしの日常に不便を掛けないように努めるのがせめてもの償いであり、毎晩葉に祈りを捧げ、そのことを誓っているのだと胸の内を明かした。眩暈が始まった頃梢は郷里に不幸があり、わたしから遠く離れていた。
梢とは奇妙な関係が続いている。過剰な親切は時に鬱陶しく、また心の重荷でもあるが、孤陋の老人には得難い隣人であろう。これも葉が死出の旅路に残した置土産かと、巡り合わせの不思議さに心揺らぐ感懐もある。
葉と梢との交遊は僅か半年足らずの短さであった。知り合った切っ掛けはわが家の前を散歩で通りかかった梢が庭のクリスマスローズに目を止めたことである。思わず「素晴らしいわ」と声を発し、その声が庭仕事をしていた葉の耳に届く。葉は庭作りを愛でられるのが何よりも嬉しい。梢を招じ入れた。庭の隅に置いた背凭れの長椅子に腰を下ろし話が弾んだのは、梢が一碧湖の近くに住み、彫刻の制作に当たっていると聞いたからである。年は葉より十歳若く、彫刻歴は四十年になる。美術団体にも所属し、毎年展覧会にも出品している。葉はフリーの身ではあるが、油彩歴はやはり四十年に及び、個展を二度ばかり銀座の画廊で開いている。
葉にしてみれば、この辺りでは得ようにも得られぬ、話の分かる仲間が飛び込んできたようなものだ。付き合いは急速に深まる。どちらも都会暮らしが長かったから美術仲間である以前に日常生活での接觸が濃かった。ひと月の付き合いが一年分に相当するほど濃密だったのは、明朗で開けっ広げな葉の性格にもよるところが大きい。街のスーパーへ買い物に行くのに梢はマイカーでよく葉を誘った。運転はしないが、車好きの葉は喜んで助手席に乗り込む。
夕暮れといっても夏の日はまだ高い。「梢さんの車で買い物に行ってくるわね」と、道路から家の中までよく通る声で呼び掛けた。それが最後の言葉だった。家から一碧湖の方へ三百メートル下った桜並木に車が激突。助手席の真っ向から立ち木にぶつかり、葉は即死に近い状態でぺしゃんこに潰れた席から引っ張り出される。運転席の梢は全治六ヵ月の重傷を負う。
梢が松葉杖を付いて訪ねてきたのは秋も深まる頃であった。息子に支えられ、門から玄関まで庭添いの階段のある道を一歩々々足元を確かめるようにして足を運んできた。玄関先に佇つと面を伏せて、「ごめんなさい」と言葉は涙でぐしゃぐしゃだった。返す言葉がない。「もう終わったことです」と応じながら、否、まだ終わっちゃいないんだ、葉の死は。俺の心の中で宙ぶらりんのままなんだ。葉は死んじゃいない、死に切れない、と胸底から涌き出る言葉を飲み込んだ。
三十を越したばかりの息子が「許して下さい、申し訳ありません」と喉を詰まらせ、両腕で抱えるほどの深紅の薔薇の花束を差し出した。葉がかつて薔薇づくりに熱中し、分けても深紅の薔薇を愛でたことを梢は知っていたのだろう。わたしは胸中の念いを面に出さず、有難うとだけ答えた。
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