第5回伊豆文学賞 最優秀賞「竹とんぼの坂道」
最優秀賞「竹とんぼの坂道」
石川たかし
熱海市伊豆山の古刹、般若院のバス停を山側へ折れると、道は急な上り坂になる。共同湯の前を通りすぎていくらも行かないうちに、睦子はもう息が切れてきた。いまだ半分も登って来てはいなかった。母の待つ実家までは、さらにかなりの道のりである。睦子はゆっくりゆっくり足を運んだ。
やがて道は二手に分かれる。そこで左手の道に足を踏み入れたとき、睦子は思いがけない光景に目を瞠った。舗装したばかりの広い道路が、左右に歩道を従えて、上へ上へと続いていたのである。黒々としたアスファルトに敷かれた真白なセンター・ラインが、ゆるやかなカーブを描きながら、秋の陽に輝いていた。そして、見慣れた山の姿がない。
かつてここには、幅のせまい一本の荒れた道があるだけであった。右手は道より高みに広がる畑の石垣がさえぎり、左手からは山が迫っていた。車一台がやっと通れるほどの、切り通しのような形状をした坂道だった。山には雑木が生い繁り、その枝々がいく重にも頭上におおいかぶさって、昼間でもほの暗い道だった。今その面影はない。木々は切り払われてあとかたもなく、山はけずり取られて低い丘のようになっていた。
「すっかり変わってしまったよ」
昨夜電話で母が言ったとおりだった。陽当たりがよくなった、とも母は言っていたが、睦子はむしろ、風当たりが強くなったという印象を受けた。
右側の歩道を、初めての土地へでも来たような気分で、睦子は登って行った。しばらくして人家がとぎれると、脚もいよいよつらくなってくる。小さいころ母に手を引かれてこのあたりを歩くとき、母はよく、
「くたびれたら下を見るんだよ。自分の登って来た道が見えるだろう。こんなに登って来たんだ、そう思えば元気が出て、また登れるからね」
そう睦子に教えたものであった。そうして二人が立ち止まったのがどのあたりになるのか、今では見当のつけようもない。それでも睦子はかつての記憶をよみがえらせようとした。幸い右手の畑の石垣は以前のままに残されている。その大小さまざまな古い石組みの中に見憶えのある様子はないものかとあちらこちらに視線を泳がせていると、ふと視界の隅に、コスモスの花が見えたような気がした。
こんなところにコスモスなんて咲いたかしら、いぶかしい思いで睦子は低めの石垣から畑に上がり、みかんの木を回ったところで、
「わあ、きれい」
思わず声を出した。上と下の畑を分ける土手の斜面いっぱいに、コスモスの花が咲き乱れていた。静かである。繁華街の喧噪も、このあたりまでは届かない。微風にこくりこくりとうなずくように揺れている白や薄紅色の花々のその向こうには、群青の海が広がるばかりであった。
睦子の嫁いだ韮山町は、平坦な土地に田畑が広がり、いちごのハウスが立ち並ぶのどかな田園地帯で、睦子はけっこう気に入っているのだが、海の見えないことだけが、たった一つ不満といえば不満だった。海のある風景に、睦子の頬はついゆるんだ。
新しい道路は実家のわきで、ふいに大きく曲がって左に向きを変え、かつては道などなかった山の腹を斜めに登って見えなくなっていた。どうやら山の向こうの美術館の駐車場に続いているようだった。そしてその曲がり際からは、ふつり合いなほどせまい昔ながらの坂道が、さらに上へとのびていた。あとでまたこの坂を登らなければならない、睦子はそう思いながら歩道をそれた。
(中略)
一週間ほど前のことである。韮山の義母が、長いこと愛用していた竹製のがこわれてしまったと、夕餉を囲む食卓で訴えた。義母は住まいの近くに小さな畑を借りて、楽しみで家庭菜園をやっている。そこでできた野菜を収穫するときに使っていた箕である。義母はかつて頼んだことのある竹細工店に数軒ほど電話を入れてみたのだが、どこも職人がすでに亡くなっていたり、あるいは廃業したりしていた。なんとかならないものかと言うのである。睦子の夫は面倒そうに、代わりにスーパーのレジ袋でも使っておけばいいじゃないかと適当に受け応えていたが、義母はどうしても箕でなければならないと主張した。箕ならプラスチック製のものがどこにでも売っているから買ってきてやろうと、夫はこれでこの件は落着くらいの軽い気持で言った。プラスチックと聞いて、義母はにわかに反発の色を示した。プラスチックなどすぐこわれてしまうからだめだと文句をつけた。
「だいいち、あんなもの、ちり取りみたいじゃないか。」
とも言った。そんなものに丹精込めた作物を入れるわけにはいかない、と言うのである。「作物」という言葉にわずかに力がこもっていた。最近義母はのせいか、時にひどく頑固である。
夫の困惑した横顔を見ながら、睦子は実家の近くに住むという籠職人のことを思い出していた。睦子の提案で、箕の製作は丑松に依頼することになり、この件はすべて睦子に一任されることになった。
「あんた、いいお里からおいでたねえ。」
義母は妙な納得のし方をして喜んだ。
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