第5回伊豆文学賞 優秀賞「海を渡る風」
優秀賞「海を渡る風」
宮司孝男
その人がどこからやってきたのか僕には分からなかった。その人は新学期になったばかりの四月八日の朝、僕が行く前にもう教室の椅子に座っていたのだ。そして運悪く、というか運よくというかその椅子は僕のものだった。クラスのみんなは登校し、教室に入り、一瞬の間、驚き、それから自分の場所に座るのだが僕だけは行くところがなかった。仕方なく僕は仲のいい四郎のところに行き椅子に半分尻を乗せた。
まもなく梅子が入ってきた。梅子というのは担任の教師であるが僕たちは親しみをこめて梅子と呼び捨てにしていた。もっとも女子の生徒は梅子先生といっていたが。梅子は、僕の椅子に座っているその人のそばまで行くと、耳元でなにかささやいた。それが流暢な英語だったので僕は驚いた。僕は四郎の背中を指で突っ突いた。四郎は小さな声で、
「オーマイガット」
とつぶやいた。
その人は梅子のあとについて黒板の前まで行った。僕はすかさず自分の椅子に戻った。椅子に座ると尻のあたりが少しぬくとかった。僕は突然顔が赤くなるのを感じた。それをほかの誰かに見つからないようにあわてて鼻のあたりを手の甲でごしごしこすった。こんなことを知られるくらいなら死んだほうがいい。特に四郎には知られたくない。
「みなさん、紹介します。エバカーリンさんです。エバカーリン・ヤンソンさんです」
梅子がいった。が、どこまでが名前でどこから名字なのか僕には見当がつかない。
「もう一度、いってください」
後ろから四郎がいう。
「エ・バ・カー・リ・ンです。ヤンソンが名字です。今日からこの下田の中学に通うことになりました。スウェーデンのウプサラというところから来ました」
梅子は一度も笑わずにいう。もう少し愛想があってもいいのにと僕はいつも思う。それに転校生のことを今の今まで一言もいわないというのも腑に落ちない。三十五歳で今だに独身というのも頷ける。それはともかく、そこまで聞いて僕は初めてその人の名前も国も知ることが出来たのだった。
「黒船で来たんですか」
四郎がまたいう。もちろん冗談だ。僕は四郎のことはなんでも知っているので四郎がなぜそんなことをいうのかも手にとるように分かる。教室の空気をなごませたいのだ。
「黒船ではありません」
梅子がまた笑わずに答える。なんということだ。
「エバカーリンはお父さんの仕事の関係でこちらにきました。みなさんも知っているかもしれませんが魚の養殖の研究です」
僕は梅子がそんな話をしているあいだ、エバカーリンを観察していた。一言でいえば美人だ。映画に出ていてもおかしくないと僕は思う。高くも低くもない背の高さ、太くも細くもない体型、真っ白い肌、銀色に光る髪、ブルーの目、高すぎない鼻、そしてきれいに並んだ白い歯。僕は一目惚れをしてしまったのかも知れない。こんなに魅力的な人を近くで見たのは生まれて初めてだ。梅子もなんとかいうタレントに似て日本人の中ではかなり美しい卵型の顔をしていると思うが、エバカーリンの横にいるとただ彼女の引き立て役に過ぎないと思われる。
「エバカーリンは本当は高校生なのですが日本語があまり分からないのでこの中学で勉強することになりました」
梅子の話は続いている。高校生?そうに違いない。胸のあたりを見れば誰だって彼女が中学生とは思わないだろう。船の絵のついたシャツは豊かに盛り上がり、貝殻かなにかで出来た青い色のボタンは弾けとびそうだ。僕はまた自分の顔が赤くなるのが分かった。
「では皆さん仲好くして下さい。それからエバカーリンというのは長いのでエバでいいそうです。席は」
ここまでいうと梅子は教室の全体をぐるりと見回した。僕と目があう。
「小川君の隣りがいいでしょう。隣りの席の人はひとつずつ後ろにずれてください」
僕はどきっとした。
「なんで小川の横ですか」
後ろから四郎がいう。なんというおせっかい野郎だ。
「小川君はクラス委員ですから」
梅子は相変わらず笑わずにいう。こういうときはその無表情さに説得力を感じる。いいぞ、梅子先生。
エバカーリン、いやエバが隣りの席に来た。座った。なんだかいい香りがする。バラの花みたいだ。香水でもつけているのだろうか。そばで見ると肌の色が遠くで見るよりもっときれいだ。透き徹るようだ。が、そばかすがある。ほんの少しだが。耳にはかわいいピアスをしている。
エバは僕の顔を見るとにこっとした。そして頭を軽くさげる。口の横に小さな笑窪ができる。僕は耳まで真っ赤になっている自分の姿が手にとるように分かった。
「先生。小川が赤くなっています。ここからでも見えます」
またまた四郎のやつがいう。あとで一発けりをいれてやろう。
一時間目は担任の梅子の授業だった。国語の教科書を開く。
「小川君。エバに見せてあげなさい」
僕は机を少しずらし、エバの机とくっつけた。その真ん中に本を開いておいた。
「ありがとう」
エバがはっきりした声でいった。教室中の空気が一瞬のあいだ、水をうったみたいに静かになる。僕の席から後ろの連中は全員がエバを見つめているのに違いない。隣りにいる僕の背中にもその視線が突き刺さるようだ。
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