第3回伊豆文学賞 佳作受賞作品『海の祈り』

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ページID1044461  更新日 2023年1月11日

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『海の祈り』

山下悦夫

海上は南東の風波がやや強まっていた。海上保安庁の七百トン型設標船「とうこう」は、夕映えに白い灯塔を茜色に染めている須崎の灯台を横に見て、下田港内に船首を向けた。

すでに「入港用意」が発令されており、航海士の私は操船に当たる船長の補佐を務めて船橋にいた。船の左前方に灯りの点りだした下田の街並が連なっていたが、私は船首方向に黒々と浮かんでいる犬走島に、やや感情の高ぶりを覚えながら見入った。尖り帽子を伏せたような島の佇まいは、この町で過ごした幼い日々に繋がっていた。

船が犬走り島を航過すると、
「長一声」

私の感傷を吹き飛ばすように、船長が入港を伝える音声信号の吹鳴を命じた。蒸気船特有の湿った響きをもつ汽笛が、暮色の濃い港の中に長く尾を引いて流れていった。

設標船「とうこう」は、灯浮標の設置や交換に当たる専用の船で、海上保安庁が所有する三隻の中の一隻だった。所属は横浜に本部のある第三管区だったが他管区での作業も担当しており、三重県から北海道を経て石川県に至る海域を行動範囲としていた。

昭和三十一年五月中旬の今日も、第四管区内の伊勢湾での作業を終えて、母港の横浜に帰るところであった。しかし気象予報が夜に入って波立つことを伝えたので、下田に避航したものだった。浮標作業のために喫水が浅く幅が広い船型で安定性が悪かったので、船長は荒天航海をなるべく避けていたのである。

間もなく船は、下田海上保安部前の岸壁に係留を終了した。船橋の後片づけを終えて船橋楼の後部にある士官室に帰ると、待ちかまえていたように機関士が、
「航海士、下田にはいい飲み屋があるぞ。上陸して一杯やらないか」

と誘った。四月初めに瀬戸内の船から転船してきた私が、この町に住んでいたことを話してなかったので、案内しようというものだった。東京湾に次いで灯浮標の多い伊勢湾には、年間三回ないし四回は回航していた。下田へは往き帰りに寄港することが多かったので、昭和二十七年の竣工時から乗組んでいる彼には、馴染みの店ができているのだろう。

往きには下田へ寄港しなかったので、私にとっては二十年ぶりに訪れた下田だった。一人でゆっくり町の中を回ってみたかったのだが、機関士の誘いを無視できなかった。それに暗くなった今、幼い記憶を頼りに歩いて見てもどこがどこだか分からない。そう思い直して、着替をすますと一緒に船を出た。

稲生沢川に沿った道の途中にはペリーの上陸地点があり、道の左側に覆い被さっているのは城山で、そのどれにも覚えがあった。城山には我が国での写真の開祖といわれる下岡蓮丈の記念碑があり、父母のところには碑の前で写した幼稚園だったか、小学校だったかの記念写真が残っているはずであった。

町中に入ると、洋風に気取ってはみたがどこか安っぽい雰囲気の漂う大正か昭和初期建築の店と、家全体が黒海鼠のように身をすくめた感じのナマコ壁の店とが、混在して建ち並んでいた。この風景は長い間、私の心の中で眠り続けてきたものだったが、その現身に接してみると「懐かしい」というより「帰ってきた」という感情が沸いてきた。故郷を持たない私にとって、物心の付いた頃を過した下田は、もっとも故郷に近いものなのかもしれなかった。

機関士が連れていったのは、海岸通りから三つほど町中に入った通りにあるナマコ壁の古ぼけた店であった。暖簾も下がっておらず、軒に店の名を書いた小さな外灯が点っていなければ、しもた屋と見間違いそうな外観だったが、中は料亭風で座敷に上がって飲食するようになっていた。

式台で案内を請うと、着物姿の若い女が出てきた。薄暗い電灯の下だったが、色の白い大きな目が魅力的な整った顔立ちに見えた。ほっそりした体に着物姿がよく似合っていた。
「チィちゃん。久しぶり」

と機関士が言うと、
「あら、石野さん。汽笛でお船が入ったのが分かったわ。きっと来てくださる、と思って待っていたのよ」

この辺でも、もう「とうこう」以外に蒸気の汽笛を鳴らす船はなかった。女はそう言うと、二人を二階の部屋に案内した。

床の間のある落ち着いた部屋に座ると、改めて女が挨拶をした。頭を上げて私の顔を真正面から見たとき、女の顔に不審げな色が浮かんだ。だが何かを振り切るような素振りを感じさせると、元の顔に戻った。

年若の女が付出しとビールを運んできた。チィちゃんと呼ばれた女より容姿はやや劣るが、健康そうで可愛いい娘だった。女が機関士に、若い方が私にビールをついだ。
「どうだ。いい店だろう」

と機関士が言った。確かに部屋の造作などには重厚さが感じられて、小料理屋としては街でも由緒のある店のようだった。でも、働いている女は前にいる二人だけらしく、地元の人や行商人などが利用する店と思われ、そう繁盛しているようには見えなかった。機関士のいう「いい店」の意味には、店の構えと二人の女との両方が係っているのだろう。
「チィちゃんの親父さんは灯台守だったんだ。だから、この店は灯台部の設標船には特別に親切にしてくれるんだよ」

と機関士は言ってから、
「そうそう。航海士の親父さんも灯台守だったといってたな。こりゃ、奇遇ってもんじゃないか」

そのとき女が微かに笑った。
「丈ちゃん」
「えっ!」

私は自分の幼い頃に呼ばれた名を知っていることに驚いて、彼女の顔を見つめた。でも、その顔には見覚えがなかった。一年生までしか学ばなかった小学校の同級生に、仲良しの女の子はいなかった。だから今の下田に、丈ちゃんと呼ぶような、同じ年頃の女がいるはずがなかった。
「私が分からないの」

女がやや寂しげに言ったとき、彼女を魅力的にしている大きな目が少しつり上がり気味になった。元灯台守の娘……。遠い昔に焦点が合った。
「チャキ……か?」

女は微笑んだ。それが肯定であることは明らかだった。色が黒く肥っていて、目だけが大きかった女の子。目の前にいるほっそりした色白の女と重なるところはなかったが、でも確かに千秋だった。永い眠りから覚めたように、過去の日々がよみがえってきた。

私の父は昭和十年から三年間、下田の南十三キロほどの沖にある神子元島の灯台に勤務した。

明治の初め、灯台建設に当った英人らがロック・アイランドと呼んだこの島は、赤黒ずんだ火山岩だけからなり一木一草もなかった。灯台員以外は無人で便船はもとより漁船も立ち寄らないこの島では、灯台員らの食糧や日用品の補給も途絶えがちで、子弟の通学などは思いもよらないことだった。このため下田に官舎が置かれていて家族はここで居住し、灯台員は島に二十日間と下田で十日間の勤務を交代で行っていた。

下田の官舎は、稲生沢川にかかる橋を渡った左岸にあった。南側に道路があって少し低くなった敷地に、小さいが一戸建の家屋が三軒あった。私の前の官舎に住んでいたのが次席灯台員の河井で、その家の娘が千秋だった。

私達一家が神奈川の観音埼灯台から転勤してきたとき、千秋は小学校一年で私は幼稚園だった。彼女は二月生れで五月生れの私とは三か月しか違わないが、早生まれだった彼女が学校では一年上だったのである。この官舎内にいる子供は、六年生だった千秋の兄に私の二歳の妹を加えた四人だった。それで私の遊び相手は千秋だった。

初めが小学生と幼稚園だったせいか、彼女はことごとに姉さんぶった。そのくせ幼言葉が残っていて千秋と言えないので、自分のことをチャキと言った。
「チャキがしてあげる」

私が何かをやろうとすると、よくそう言った。それは最初の年に神子元島で起きたあることを通じて、より強くなったことだった。

石室崎に相対する神子元島の周辺は潮流が早く、少しの風でも波が荒だつ難所である。それでも比較的に海が穏やかな夏には、学校の休みを利用して家族も島に渡り、一家揃って生活するのが恒例となっていた。下田にきた年の夏も、大学生の子が帰省している灯台長のところを除いた二家族が島に渡った。

島では父に連れられて魚釣りをしたり、母達と磯で貝や海草取りをして遊んだ。島の西にあって唯一の船着場となっている小さな湾では海水浴をした。ある日どういうわけだったのか、子供達だけで西の湾に磯遊びに行った。犬かきも満足にできないくせに、岩につかまって足を動かしていると、泳げるような気がしてきて岩から手を離した。波がきて浮かび上がった拍子に流され、慌てて手足をばたばたしたが岩に届かない。そのとき胸まで入ってきた千秋が、ものも言わずに手を差しのべて引き寄せてくれた。あのとき彼女が手を差しださなかったら、湾の中に流されて溺れていたかもしれなかった。千秋は何にも言わなかったが、以来、自分を無鉄砲な私の庇護者としたようであった。

そんな千秋を私が助けたこともあった。私が小学校に入学し彼女が二年生となった年、学校帰りに小学校三年生で近所のガキ大将だった魚屋の子が、千秋の大事にしていた上草履袋を取り上げた。
「返してよ」

千秋がかなぎり声をあげたが、ガキ大将はそれを高く掲げて、
「とれるものなら取ってみろやい」

と言った。大将の取巻き連中がその後について囃したので、千秋は泣き出してしまった。私はガキ大将めがけて突進した。頭突きで一遍はよろめかせたが、相手は三年生だし体も人並み以上に大きかったので、たちまち組み伏せられてしまった。私は相手の腕に噛みついた。
「いててて」

悲鳴を上げた大将は、袋を投げ出すと逃げていった。しばらく起きあがれないでいた私の顔をのぞき込んで、
「馬鹿ねぇ。あんな奴に向かっていくなんて。やっつけられて当たり前よ。いいわ、チャキが明日、先生に言いつけてやるから」

と千秋はここでも姉さんぶって言った。

官舎前の道路を越えると、小石のごろごろした武が浜だった。浜の東側にある松林の中に、汽船会社が経営する「ヒュッテ黒船」というコテージ風の旅館があった。夏には庭に造られたビヤガーデンでアトラクションがあり、灯台員の家族も招いてくれた。その日、千秋は浴衣を着て下駄を履いていた。いつもと違う女の子らしさを千秋に感じ、胸の中から甘酸っぱいものが沸き上がってきて、彼女の顔がまともには見られなかった。

女の子と男の子の遊びとしては、どうしても飯事になる。千秋はいつもお母さんだったが、私は父親になったり子供になったりさせられた。そんなとき、
「チャキ、大きくなったら丈ちゃんのお嫁さんになってあげる」

と千秋が言った。私はそうなるのが決まりのように思って、
「そうだ。大きくなったらチャキは僕の嫁さんになるんだぞ」

と言った。結婚を飯事の延長としか考えていなかったのだ。私にとって彼女はあくまで姉さんだった。それも実の姉以上に親愛感のある姉さんだった。

灯台員の転勤は早い。せいぜい一か所に三年、早ければ二年で転勤する。灯台のある場所は、人里を遠く離れた岬端か神子元島のような絶海の孤島が多いが、港の灯台などで町に近いところもある。僻遠の地と便利な地とを交互に勤務させるための早目の転勤であった。私が来て三年目の春、千秋達は九州の灯台へ転勤していった。別れる前の日、彼女が私に筆入をくれた。

その筆入は上等なセルロイド製であったが、描いてあるヨットの絵に海への夢を誘われて「いいな」と言ったことがあった。
「大事にしてね」

と千秋は言ったが、彼女もそれを大事にしていたことを知っていた私は、千秋が自分の一部を私の元に置いていったような気がした。

私の父も翌年には樺太の灯台へ転勤となり、その後は北海道の灯台を転々とした。戦後になってからの父と母の話の中で、千秋の父は戦時中に占領地の灯台管理要員として南方へ派遣されたが、乗船が撃沈されて行方不明となったことを知った。その後の彼女たち母子の消息は分からなかった。

そして今、美しく成長した千秋が下田にいた。皆が散り散りになった故郷を、一人で守ってきた姉に再会したような気がした。
「チャキ。君がどうしてこの店にいるんだい」

と聞いたが、千秋は笑って、
「一口では話せないわ。後でお話しします」

とだけ言った。先ほどからのやりとりに機関士が驚いて、
「こりゃまた、どうなってんだい」

と言ったとき、女将らしい五十半ばの年輩で顔色の悪い女が、部屋に入ってきた。私達に挨拶をすると、残り少なくなったビールを見て、追加を持ってくるように千秋に言った。彼女が下りていった後、私は女将に、
「千秋さんがどうしてここにいるんですか。昔、あの人とは灯台官舎で一緒だったんです」

と聞かずにはいられなかった。
「あれ、そうだったんですか。あの娘も可哀想な子でねぇ。私の従姉妹の娘なんだけど、戦争で父親と兄さんが亡くなり、母親も戦後直ぐに亡くなって、一人だけ残されたんですよ。それで西伊豆の父親の実家に引き取られていたんだけど、そこも居づらくなって、下田にいたとき遊びにきていた私を頼って出てきたんです。私も戦後につれ合いを亡くして一人きりだし、最近は体具合も悪いんで、一生懸命務めてくれて浮いた噂一つさえ立てないあの子を、頼りにしている有様です」

と言った。女将の話からは、独身の千秋が店を取り仕切っていることが察せられた。女将は千秋が上がってくると引き替えに下りていった。
「女将さんから聞いたんだけど、大変だったんだね」
「えぇ。でも、ここでは女将さんが優しくしてくれるから……」

少し口ごもるようにして千秋は言った。やや寂しげなその姿からは、激動した境遇の厳しさと今の立場の微妙さが伝わってくるような気がした。「苦労したんだなぁ」と、彼女が一人で女将を訪ねたときの気持を思いやって、涙がでそうになった。私の胸は、慰めてやりたい気持ちで一杯になった。

でも機関士がいることだし、二人だけの話はそれ以上はできなかった。千秋と二人になれる方法はないものか、と考えていると、
「いた、いた。矢っ張り、セカンド・エンジャーはここだよ」

と機関科の古手科員達が部屋に入ってきた。三十近いが独身の機関士は気前が良く、部下をひきつれて飲み回ることが多かったので、機関員達からは人気があった。座は賑やかになったが、このままでは益々千秋と二人だけの時間が持てそうもなかった。

先に帰ることにしたら、少しでも話しができるのではないか、と思って、
「夜になって風が強くなるという予報だったんで、アンカー・ワッチになるかもしれないから先に帰るよ」

と言って席を立った。玄関まで送ってきた千秋に、
「一度、二人だけでゆっくり話たいな。でも、明日は出港することになっているんだ」

未練を残して言った。千秋は、
「そこまで送っていくわ。ちょっと待っていてね」

と二階に上がっていった。下りてくると、
「さあ、いこうか」

先にたって玄関の戸を開けた。
「店はいいのかい?」
「朝子さんに頼んできたから。それに今日は他にお客がないので、少しくらいなら大丈夫」

海よりのやや湿った風が吹いていたが、暑くも寒くもない心地の良い五月の夜だった。九時近かったので町中の人通りは少なかった。私は後ろを歩いてくる千秋に言った。
「お父さん、お母さん、それに兄さんまで亡くなって、辛いことだったなぁ」
「えぇ」

彼女は言葉少なに応じただけで、そのことには余り触れたくないようであった。少しうなだれた横顔が寂しげだった。それで話を替えて、
「女将さんの話では、チャキを自分の子供のように頼りにしているようだったが、あの店を継ぐことになるのかい」
「そうと決まったわけではないわ。でも女将さんは、身よりのない私を拾ってくれて、女学校へも通わせてくれたの。旦那さんに死なれてひとりぼっちとなった女将さんには、できる限りのことをしなければならない、とは思っているわ」

それが良いことなのか、それとも悲しい定めなのか、私には分からなかった。それで聞いてみた。
「チャキ、今の生活は幸せかい」

千秋は俯くと、
「あのようなお店では、いろいろのことがあるわ。でも、私の生きていく道はこれしかないのだから。それに、あのお店にいたので丈ちゃんに会えたんだもの」

と言った。
「俺はチャキを本当の姉さんのように思っているんだ。困ったことがあったら何でも言ってくれよ。もっとも俺は金も暇もない船乗りなんで、役らしい役にも立たないかもしれないが、できる限りのことはするつもりだから」

私が抱いている千秋への感情は、灯台官舎の延長線上あった。それは彼女を姉としてしか意識させなかった。

千秋はしばらく黙っていたが、
「丈ちゃんのお話は嬉しいわ。女将さん以外にもう一人、身内の人ができたんだもの。本当にそう思っていいのね」

とややとってつけたような明るさで言った。
「勿論だよ。何でも相談してくれよ。手紙をくれれば航海中でない限り飛んでくるから」
「ありがとう。でも下田に来たときは必ず顔を見せてね。昼間なら、ゆっくりお話できると思うから」

すでに道は町中を外れて、平滑川に架かっている弁天橋にさしかかっていた。千秋が言った。
「これから先は暗くて帰りが怖いから、ここでお別れするわ」

まだまだ話し足りなかったが、確かに横にあるドックから岸壁までの道は暗くて、若い女が一人で帰るには危険な感じであった。
「そうか。残念だなぁ。でも、これからは下田に入ることが多いので、次に来たときにゆっくり話そう」
「待っているわ。きっとお店に寄ってね」

と千秋は言ってから、
「はい、お別れの握手」

子供の頃の彼女に戻ったような茶目っぽい声で言って、手を差し出した。千秋の手は軟らかくそして暖ったかくて、そのまま握り続けていたい気持にとらわれた。しかし彼女は直ぐに手を引くと、軽く頭を下げてから来た道を帰っていった。

翌日の朝、天候は回復しており「とうこう」は横浜へ向けて出港した。私は、朝靄に包まれた穏やかな下田の町並みに、千秋の寂しげだった横顔と軟らかかった手を重ねていた。

第三管区に帰ってからは、横浜を基地として東京湾内での作業に従事した。灯浮標は点検と修理ために、二年に一回入替えする必要がある。朝、定繋地の新山下桟橋を出港して、航路筋に設置されている一基ないし二基の灯浮標を交換して帰港する。

交換以外にも、新しい航路筋や危険個所へ灯浮標を新設することも多かった。その一つに御前岩灯浮標があった。御前崎沖合は、御前岩などの暗礁が点在していて座礁事故が多かったので、灯浮標を新設することになったのである。浮標本体だけで五トンを超える自重があり、それに係留用のチエンとコンクリ-ト製の錘が付随している。これをデリックで上げ下げするのであるから、外洋ではよほど凪のときでなければ作業できない。下田港を前進基地として、天候を見ながら行うことになっていた。

横浜へ帰ってからも、千秋のことが頭から離れなかった。一人ぼっちになって、遠縁の家に世話になっている可哀想な千秋。真の姉のことのように、彼女の境遇の悲しさが気になった。何とか力になってやりたいのだが、さて何をしたらよいものか、さっぱり分からなかった。御前崎の作業で下田に寄ったときに、それとなく探ってみよう、と思った。

六月中旬になってその日がきて、灯浮標を積み込み横浜を後にした。午後五時過ぎに下田に着いたが、船長は岸壁付けとしないで外港内に錨泊した。明早朝の出港を容易にするための錨泊であり、搭載艇による上陸便も出さなかった。千秋に会っていろいろ話合いたい、と思っていたのがはぐらかされてしまった。侘しい気持を抱きながら、越えることのできない暗い海に映る町の灯を、いつまでも眺めていた。

夜半から南東の風がやや強く吹き出し、翌朝も同じような天候であった。出港を見合わせて待機となったが、昼を過ぎても天候は回復しないので午後は休養となり、上陸便を出すことになった。

航海長は上陸しないと言うので、午後一時の便に乗った。千秋の店に行くと玄関に彼女が出てきて、
「昨日お船が入ったので待っていたのに、来てくれなかったわね」

と少し口を尖らすようにして言った。
「うん。今朝早く出る予定だったので沖泊まりにして、上陸便も出なかったんだ。でも、昨夜からの風で出港が中止となった」
「もう、私のことなんか忘れたのかしら、と思っていたわ」

と千秋は笑いながら言った。
「今日は昔に住んでいたところ辺りへ行ってみようと思っているんだが、よく覚えていないんで案内してくれないかい」
「いいわ。お客さんの予定もないし、女将さんに断ってくるから少し待っていてね」

待つほどもなく出てきた彼女と一緒に店を出た。下田橋を渡るとき、
「丈ちゃんがここで、魚屋の子から上草履袋を取り返してくれたわね。でも二つも大きい子に向かっていくなんて……、丈ちゃんは無鉄砲だったんだから」

昔ながらの姉さんぶった口調であった。武が浜では灯台官舎の建物は壊されていて、建設用の資材置場となっていた。
「あの辺でよくお飯事をしたわね。でも丈ちゃんは子供をやるのを嫌がって、お父さん役ばかりやりたがったわ」

私は微かに残っているその風景を思い出して、鼻の奥の方がきな臭くなってくるのを感じた。それから海浜へ行った。道を隔てた松林の中にある旅館のところで、
「ここでは夏に魔術を見せて貰ったことがあったわね」
「チャキは朝顔の柄の浴衣を着て、赤い鼻緒の下駄を履いていたね」
「まぁ、そんなことまで覚えていたの」

千秋は嬉しそうに私の顔を見て言った。それから町中に引き返して、目抜き通りを中心に見て回った。

観光客らしい姿もちらほらと混じってはいたが、それを除けば行き交う人々の身なりはほとんどが普段着で、入港したばかりらしい漁師風の男達も見られた。それなりに活気が感じ取られ、店先で話し込んでいる人々の顔は明るかった。

千秋はすれ違う人の大方と軽く挨拶を交わしたが、男連れであるのを見ても、人々の表情には特段の変化がみられなかった。彼女が料理屋の女だからか、と思ってみたが、相手の誰もが親しみを感じさせる対応だったので、特別な目で見ているとは思えなかった。千秋の人柄がさせるものか、個人のことには干渉しない町の気風なのか、私には分からなかったが、そんな町なかの様子から、前に感じたほど彼女の今が不幸だとは思えなかった。それで、身よりの少ない彼女には、真の弟として接することが、もっとも力になることなんだろう、と思うことにした。

それから下田の港が見下ろせる城山公園にいき、ベンチに腰を下ろして話をした。千秋は今までのことは余り話さず、主に私と遊んだ頃の話をした。それから、
「この前に聞くのを忘れたんだけど、丈ちゃん結婚しているの」

と聞いた。
「まだだ。そんな甲斐性はないよ」
「駄目じゃない、二十五にもなって。早くお嫁さんを貰いなさいよ」
「相変わらず姉さんぶっちゃって……。昔とちっとも変わってはいないな。チャキだって二十五じゃないか。俺のことを心配する前に、自分のことを考えなけりゃいかん年だよ」
「私……」

千秋はそう言って言葉を切った。しばらくして、
「昔、丈ちゃん、私のことをお嫁さんにしてやる、と言ったわね」
「そんなことがあったかなぁ」

私も覚えていたが、千秋の心の中が分からないまま答えた。彼女に対しては姉という感情が先にたっていた。しかし今の千秋の言葉は、私の胸の中にさざ波をたてた。
「今なら笑い話だけど、そのときは嬉しかったんだからおかしいわわ」

千秋は微かに笑いながら、先の言葉を冗談にしてしまった。

時計は三時半を回っていた。もう上陸便の帰船時間だった。二人は公園を発って、ドック横の道で別れた。千秋は今日は手を差し出さなかった。

七月初めの日の朝、第二管区の本部がある塩釜へ向けて横浜を出港した。

東京湾を出て野島埼を回ると東北の風が強まり波が少し高くなったが、昼の天気図を見た船長は引き返すことなくそのまま船を進めた。犬吠埼灯台を夜半に通過して、翌日の早朝に塩屋埼を過ぎるころから濃霧の中に突っ込んだ。見る見るうちに船の回りはミルク色の濛気に包まれ、どんなに目を凝らしても船首から先はただ冷たい水蒸気の粒が渦を巻いているだけだった。

レーダーが装備されていないため、船長は速力を落とし霧中信号を行わせて慎重に船を進めた。時々、測深儀の水深と海図とを見比べ、潮流による横流れを考慮して少しずつ針路の変更を命じた。そして午前二時過ぎ、二十時間近くの霧中航行の末に塩釜港外へ到着した。船長は、推測位置と測深儀の示す水深を見比べながら船を進めて、正確に目的地へ到達させたのだ。

仮泊作業が終って航海長が船橋に上がってくると船長は、
「このまま航海当直を続行してアンカー・ワッチをしてくれ。あーあ、くたびれた。寝るとすっか」

と言って船室に下りていった。霧中航行に入ってからは、食事のとき以外は船橋に詰めっきりだったのである。

塩釜での作業を終えたあと気仙沼、大船渡、宮古、八戸と三陸沿岸の主要港湾での作業を続けながら北上して、七月の下旬には津軽海峡を越えて室蘭に入港した。三陸沖の天候が悪かったので、この時点で予定より三日遅れだった。

室蘭からは函館に向かい、函館では一日の休養を挟んで五日間滞在した。私は休みの日に上陸して、千秋への土産に貝細工のブローチを買った。

千秋のことは忘れたことがなかった。航海当直や作業を終って海に見入っているときなど、海面に千秋の顔が浮んでくることがあった。その顔は寂しげで、しばらく見ていると揺らめきながら消えていくのだった。その後に湧いてくる感情は、姉を思うものとは少し違っているようだったが、灯台官舎で培われていた意識がそれを打消させた。しかし無性に会いたかった。横浜へ帰り次第、下田へいこうと思った。

函館からは津軽海峡を西に進んで、龍飛埼から凪の日本海を南下した。かっては松前通いの北前船が行き来したこの海を、赤錆を浮べた小型貨物船などと前後して「とうこう」は走った。

秋田の船川から酒田と作業を行って新潟に入港したのは八月中旬で、横浜を出てから一月余りの日数が過ぎていた。この後は富山から伏木さらに七尾まで南下して作業を行い、七尾で初めて反転して青森、塩釜と残っている作業をこなさなければならない。横浜に帰りつく迄にはまだ一月近い日々が残されている。ようやく乗組員達の中に疲れと倦怠が拡がっていった。

夜はほとんど港に停泊しているのだから上陸すれば良さそうなものだが、始めのうちこそ物珍しかった港々も、懐具合もあって目的もなく漫然と歩き回るだけでは、町にも人にもなじめず侘びしさが増すだけである。だんだん船で寝ころんでいることが多くなる。狭い船内で顔をつきあわせていると、気が苛立って些細なことで諍いが起こる。

新潟在泊中に給料が支給された。懐の膨らんだ乗組員達は、映画や一杯飲みに三々五々と上陸していった。その夜、十一時を過ぎて士官室の扉がノックされた。目を覚まして起きていくと、入り口に警官が二名立っていた。「お宅の乗組員が二人、町で暴れたので保護しています。本来なら一晩泊まって貰うところだが海上保安庁の船の乗組員だし、それに彼らにもそれなりの理由があったようだから、引取りに来てくれれば釈放しますが」

と言った。
「それはご迷惑をお掛けいたしました。その乗組員は誰ですか」

警官は、姿形が良いので飲み屋などでもてる服部という男と、もう一名の航海科員の名を言った。私は航海長を起こして事情を告げると、警官の乗ってきたジープに乗せて貰って警察に行くことにした。途中で彼らが何をしたのかを聞くと、一寸した暴力バーに引っかかって店内で暴れたとのことだった。

何という馬鹿なことを、と腹が立ったが、しょぼくれた格好で椅子に座っている二人を見ると可哀想になった。甘い言葉に釣られて引っ張り込まれたのだろう。私の顔を見ると立上がり、
「セコンド・オッサー、申し訳ありませんでした」

と服部が言って二人とも頭を下げた。「二度とこんなことを起こさぬように、船の方でも十分注意します」と誓約してから、タクシーを呼んで貰って船に帰った。

翌日になって、船長と航海長に事件の経過を報告した。
「他の乗組員への手前もありますので、二人には何らかの処分をしなければなりませんでしょうな」

と航海長が船長に言った。処分の内容いかんでは履歴に傷が付くこともある。
「そうそう馬鹿なことをすまいが、警察への顔立てもある。新潟在港中は上陸禁止にするか。だが処分は船内限りで済まそう。それにしても長い航海だ。科員連中の気も立っているだろう。次の港あたりで暖気直しをやっか」

暖気直しは、ボイラーの調子が悪いときに暖め直すことからきた船乗り言葉で、転じて景気直しに何かを行うことをいう。船長の場合は全員で飲もうというものであった。
「そうですな。富山に入ったらやりますか」

それを受けて航海長が言うと、船長は、
「予定は次が富山じゃが、七尾まで一気に下がって逆に上がってくることにしようか。帰りコースに入ったと思えば、少しは気が休まるかもしれん。問題はブイの整備ができているかだが、チョッサー、悪いが本部にちょっくら当たってもらえんか」
「分かりました。早速、行ってきます」

船長は背は高いが痩せていて、細長い顔は目尻が下がっているうえにちょび髭を生やしていたので、外見にはにやけた感じだった。その割には格好を付けることはなく、いつも作業服を着ていて制服姿を見たことがなかった。士官食堂にくれば舷側の長椅子にだらしない格好で座り、食事中にも北関東訛りのあくの強い言葉で品のない冗談を言って、士官連中の顰蹙を買っていた。麻雀が好きで停泊中や仮泊中には卓を囲むが、負けがこんでくると機嫌が悪くなるので、古い士官連中は相手をしたがらなかった。

そんな船長だったが、船内での信望は厚くとくに航海科員達の信頼は絶大だった。航海でも作業でも安全第一に徹していたし、岸壁への達着や灯浮標作業での操船技術は見事だった。いつも船内の和に気を配っていて、今度の暖気直しもその一つだった。それに飾らない性格から、末端の科員にも分け隔てなく接していた。そんなところが乗組員に、肌で感じ取られていたのである。

結局、七尾まで直航して反転することになった。七尾での船内パーティーが功を奏したのか、船首が母港の方に向いたという気持ちがさせるものか、船内の空気が少し明るくなった。津軽海峡を今度は東向きに渡り太平洋に出て、再び塩釜に入港したのは八月十日過ぎで、初めの遅れを取り戻せないまま予定より三日遅れだった。

湾内の設標作業を後一日で終えて、明後日は横浜へ帰港の途につくという日の夕方、管区本部の警備救難部係員が訪船して、本部長の要請を伝えた。その内容は「作業終了次第、釜石に係留中の事故船を塩釜まで曳航して貰えないか。三管区本部には了承を受けている」というものであった。

その事故船は沖で火災を起し、八戸基地の巡視船が救助して塩釜に向ったが、途中でまた遭難船がでたために、釜石までで曳航を打切り引返したものだった。塩釜で修理をしたいが曳船に支払う曳航料が惜しい船主は、地元選出の代議士に泣きついて海上保安庁に曳航継続を要請させた。本庁から通報を受けて処置を任された第二管区本部は、地元代議士からの話でもあるので曳航することとしたが、傘下の巡視船に余裕がなかったために「とうこう」を当てようとしたのである。

船長は、この要請を言下に断った。理由は日程が詰まっている、ということだった。釜石までは片道二十時間はかかるが、帰りは速力が落ちるから三十時間はみなければならず、往復には三日間以上は必要である。すでに予定より三日遅れているのだから、あわせて最低六日間の遅れとなる。さらに航行性能の悪いこの船では、途中で風待ちの滞船も必要になるかもしれない。横浜へ帰ってからも、九月末には第四管区へ回航する予定となっており、帰港がずれれば第三管区での作業に差し障りがでる。

しかし、それは表面的な理由であった。帰途についてから船内が少し明るくなったとはいえ、乗組員のいら立ちは本質的には治まってはいない。船長としては仕事が終わり次第、一日も早く乗組員を横浜に返してやりたかったに違いなかった。さらに、より問題なことは、この輸送は灯台業務とは無関係で、災害救助のような緊急用務でもないことだった。ここで安易に妥協すれば、以後、他管区が雑用を押しつけてくる先例を造ることになりかねない。便利屋のように使われてはたまらない。それが船長の本心だったのだ。

係員が不満そうな顔で帰ってしばらくすると、本部の課長が車で乗り付けてきた。この課長は最初から喧嘩腰であった。当時の海上保安庁の人脈には、東西二つの高等商船学校の流れがあった。年齢の似通った船長と課長の二人が同じ学校の出身であれば、この問題もこれほどややこしくならなかったかもしれない。
「船長、どうして本部長の要請を受けられないんだ。この仕事には三管区の了解を取り付けてある。どうしてもできない、というのなら、本部長命令とするぞ。設標船の業務規程には「他管区で行動中は当該管区の本部長の指揮下に入る」となっているではないか」

地元代議士からの依頼をむげに断ったら後々に問題を残す。本部としては引くに引けなかったのであろう。しかし船長は即座に反論した。
「本船が他管区の本部長の指揮下に入るのは、設標作業に限ってのことだ。警救業務まで含まれるとは理解していない。それに三管本部の了解を得たと言うが、当方で確かめたところでは、業務に差し支えない範囲内で船長の判断で行え、となっている。業務に支障を生じるから駄目だと言っているんだ」

他管区本部長の指揮権限は設標作業だけに限られる……かについては定かではなかったが、船長はがんとして所信を曲げなかった。

結局、船長が押し切って、翌日の作業を終えると横浜に帰った。

横浜で最初の日曜日は当直であったので、下田へは行けなかった。

次の週になって船長に転勤命令が舞い込んだ。海上保安庁の人事異動は、他の官庁並に四月一日付けの定期異動で行われていた。以外の転勤は、病気で休む者の交代やポストの新設など、特別の場合に限られる。それに転出先は第一管区の救難課補佐官であった。本来、船長ほどの経歴であれば、課長か部次長が相応しいポストである。特定の原因がなく左遷と分かるこの転勤が、第二管区での事件に端を発していることは明らかであった。

あの件は代議士がらみだった。代議士の顔を立てようとした本庁の意向に反した結果となったわけで、第二管区の本庁への経過報告が、船側にとって悪意に満ちたものとなったのは当然であった。それを受けての転勤発令なのだ。それにしても船長には何の事情調査もなく、余りにも一方的な措置であった。

乗組員にこの噂が伝わると、船内は騒然とした。皆、悪意の報告をした第二管区本部と人事を行った本庁の非を唱えたが、とくに航海科の若手連中が尖鋭だった。その夕方、家族持ちの乗組員が上陸してから、若手航海科員のリーダー格である服部が、数名の科員を連れて士官室にやってきて、
「若手の連中で船長の転勤取消を陳情することを考えていますが、セコンド・オッサーも一枚加わってくれませんか」

と言った。彼には、船長に新潟で処分を船内限りとして貰った恩義があった。
「本庁が一旦、発令したものを取り消すことはないだろう」

と言うと、
「それは分かっていますが、このままでは船長が余りにもお気の毒です。あのとき塩釜に曳船が一隻もいなかったのならやむを得ませんが、私の見ただけでも二隻はおりました。本船の日程は遅れているのだし、三管区での作業も詰まっているのだから、船長の措置は当然だったと思います。そのような事情を知った上での発令とは思われません。その辺のところを上層部に分かって貰うために、陳情しようとしているのです。俺達は皆、船長が好きだった」

私も、船長の名誉回復のために何かできることがないだろうか、と考えていたところだった。それに若手科員達がそこまでやろうとしているのに、若手の士官である自分が傍観しているわけにはいかなかった。漠然とした不安はあったが、子供のときからの無鉄砲が鎌首をもたげた。
「よし分かった。早速、文案を考えよう」

陳情先を第三管区の本部長とした文案を清書して、
「それじゃ明日の昼休みに本部へ届ける。服部君と他一名だけ俺と同行してくれ。この件は航海長は勿論、他の士官には一切内緒だぞ」

航海長が知ったら押さえられるに決まっていた。「責任は俺がとればいいんだ」と思った。

翌日の昼、本部の総務部を訪れて、部屋にいた部員に陳情書を手渡した。部員はあきれ返ったような顔をしていたが、渡すだけ渡すとさっさと船に引き揚げた。

三時過ぎ、航海長に本部の総務部へ来るようにとの連絡が入った。不審そうに出ていった航海長は五時前に帰ってくると私を呼んで、
「セコンド・オッサー。不味いことをしてくれたな」

と言った。「はぁ」と返事すると、
「あの陳情書だが、本部の連中がカンカンになって怒っている。これは団体交渉だ、と言ってな。君らの気持ちは分からんでもないが、やり方が悪かった」

私は頭をハンマーで殴られたような気がした。団体交渉……それは海上保安庁職員にとって、禁じられている事頃であった。漠然とした不安はあったが、これが団体交渉になるとは考え及んでいなかったのだ。
「申し訳ありませんでした。団体交渉になるとは思ってもいなかったものですから。ただ私たちは、船長に非のないことを明らかにしたかっただけなのです」
「しかし結果は船長にとってよい方向にはならんぞ。むろん、俺も監督不行届ということになるだろうしな。まあ、俺は構わん。今回のことについては俺自身、君たちと思いは同じだからな。でも、本部のあの怒りようでは、君らには何らかの処分がくるだろう」
「責任は団体交渉ということに気が付かなかった私一人にあります。当然、士官として彼らを押さえなければならなかったのですから。早速、本部に行ってこのことを話してきます」
「無駄だと思うが、止めはしないよ」

と航海長は言った。

翌日、私は総務部にいって人事係長に釈明をしたが、係長はけんもほろほろの応対で、まったく相手にしてもらえなかった。

船に帰ると、船長が士官食堂の長椅子にいつものようにだらしなく腰掛けていた。
「余分なことをして申し訳ありませんでした」

頭を深く下げて言うと、
「まったく馬鹿なことをしたもんだ。本部の石頭どもは、ものごとを逆にしか見ようとはせん。結局、悪者にされるのは君だ」
「いえ、私はともかく、船長にご迷惑をおかけすることになってしまって……」
「俺か?俺はどうってことないさ。やっとこさで、このおんぼろ船からおさらばできるんだし、それに北海道は酒も魚も旨いからな」

いつも通りの船長であった。

日曜日がきたが下田へは行かなかった。自分の身分がどうなるか分からない不安定な状況の下では、千秋と会うことに気が引けたからである。

翌日の月曜日、船長は退船していった。出発時間を誰が告げたわけでもなかったが、デッキには全乗組員が見送りに出ていた。船長は皆をぐるっと見回してから軽く頷くと、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。後は車が走り出すときに手を挙げただけで、船の方を一度も見ようとはしなかった。

新しい船長はなかなか発令されなかった。その間、航海長が船長代行で設標作業を続けた。私が航海長代行を務めるこの状態では、さらに下田へ行きにくくなった。

前船長が去ってから半月ほどして新船長が着任した。本庁の警備救難部に勤務していたエリートだったが、操船やブイ作業の指揮では前船長よりかなり見劣りがした。

その頃になっても、私へは何も話がなかった。第四管区への回航も間近になっており、もうこれ以上、千秋に会うのを延ばしたくなかった。今度の日曜こそ下田へ行こう。そう思っていた私に、北海道の東端にある海上保安部への転勤命令が届いた。

これが処分なのだろうか。私は靄に包まれたような気がした。航海長に気持ちを伝えると、本部へ行くから様子を聞いてこようと言ってくれた。本部から帰った航海長は、
「総務部ではある程度厳しい処分を考えていたんだが、本庁へ上げる前に本部長のところで止められたということだった。本部長は『陳情書だけで直ちに団体交渉だと決めつけるのは、少し酷ではなかろうか。これを読むと、二管区にも一方的なところがあったようだし』と言われたそうだ。総務部が、庁の決定に異を唱えたものをそのままにしては示しがつかない、と反論したら『それなら今の職から外したらいいではないか』と言われたそうだ。本部長は船長の異動の時に何の事前連絡もなかったことで、少々お冠なんだそうだ。君の転勤先が一管区となったのは、総務部のせめてもの抵抗だろう」

と言った。第一管区の巡視船は、北洋での遭難船救助など、勤務が厳しいことでしられている。私への発令は予備員であったが、急の異動でポストがないためで、いずれ乗船することになるのは明らかだった。

早すぎる転船だが、それ自体には抵抗はなかった。だが、千秋に関する限りことは重大だった。北海道へ行ってしまえば、彼女に会う機会はなくなる。そう思っただけで胸が締め付けられるように痛んだ。この痛みは何だろう。姉と別れるつらさにしては、異質のものが混じっていることを、感じないわけにはいかなかった。

そのうちに考えがある点に収斂されていった。「そうか、俺は千秋を愛していたんだ。それも姉としてではなく、一人の女として……。俺は何というとんまな男だったんだろう」しかも、それを知ったのが北海道へ去るときだったとは……。臍を噛む思いとはこのことだった。

だが今ならまだ間に合う。千秋にあって打ち明けよう。彼女には料理屋の跡継ぎ問題があるかもしれないが、俺の気持ちを受け入れてくれさえすれば、後は話し合って何とか道が開けるだろう。いずれにしても、もう日がなかった。

船長と航海長に断って翌日一日の休暇を貰った。東海道線と伊東線を乗り継ぎ、伊東からはバスで下田に着いたのは昼過ぎだった。

店を訪れると千秋が出てきた。驚く千秋に、
「話したいことがあるんだ。少し外へ出られないか」

と言うと、
「女将さんが用事で出ているので私一人なの。お部屋ではいけない?」
「いい」というと、二階の部屋に通された。お茶を持ってきた千秋に函館で買ったブローチを渡した。千秋は「中を見ていい」と聞いてからブローチを見て、
「まあ嬉しい」

と言ってそれを胸に抱きしめた。三月ぶりに会う千秋は、やや窶れているような気がした。そんな千秋を見て、私にはこみ上げてくるものがあった。
「チャキ、俺と結婚してくれないか。でも実は……」

と言葉を切ると、千秋は目を見開いて私の次の言葉を待った。
「実は今度、北海道へ転勤になったんだ。だから直ぐにとはいかない。向こうへ着いて落ち着いてからにしてほしいんだが」

千秋は黙って聞いて、私の話が終わっても口をきかなかった。私は不安になって、
「いや、チャキには女将さんのことがあることは分かっている。だから結婚しても直ぐに北海道にきてくれとは言わない。北海道の巡視船勤務は二年と決まっているから、当分はチャキが下田に居る別居生活でいいと思っている。それから後のことはまた考えよう」

話の途中で私は、千秋が私の話を聞いていないことに気が付いた。彼女はどこか遠くを見ているような目をして座っていた。私は立ち上がると千秋の前に座り、彼女の肩をつかんで言った。
「どうした。俺の話が聞こえないのか」

千秋は私の目を見つめると、私の体に身を投げかけてきた。そして、
「抱いて、丈ちゃん。あたしを抱いて」

と言った。彼女の体は震えていて、熱を持っているようだった。私が抱きしめると、
「好き。子供のときから丈ちゃんが好きだったの」

と呻くように言って、私の胸に顔を伏せた。私は千秋の顔を手で起こすと、唇を寄せていった。二人はそのまま畳の上に倒れ込んだ。私は夢うつつに千秋の着物を解き、彼女の体に自分を埋めていった。彼女が未体験だったことは、体の震えで分った。

夢を見ているようなひとときが過ぎて、千秋は身を起こした。私は、
「結婚してくれるね」

と言った。それに千秋は微かに頷いたようだった。
「向こうへ着いたら直ぐに手紙を書く。チャキも返事をくれ」

私の心の中には安心が生まれていた。彼女が私への愛を告白し全てを許してくれたのは、結婚することを承諾したからだ、と思ったからであった。

横浜へ帰った私は二日後に北海道へ旅立った。現地に着いて身の回りの整理が付くと、千秋に手紙を書いた。結婚式は年が替わってからでよいか、とも書いた。

千秋からの返事は一週間余りして届いた。薄い封筒に微かな不安を感じて封を切ると、一枚だけの便箋に「この前のお言葉は、もうこのまま死んでしまってもいい、と思うほど嬉しう存じました。それまで丈ちゃんは私を姉としか見ていない、と思って諦めていましたから……。でも、お言葉に添うことが叶いません。女将さんからの話で、近く結婚することになっています。私には女将さんの話を断れませんでした。もし丈ちゃんのお話が二月早かったなら、と胸のはりさける思いですが、今となっては取返しようもありません。丈ちゃんのご幸福をお祈りしています」とだけ書いてあった。

私はわなわなと震える手で手紙をやぶると、もう届かぬ人の名を呼んだ。

すべては私の思い違いから始った。下田に故郷の匂いを嗅いだことが、千秋を姉にしてしまった。故郷というものの有りようを知らない私にとって、その地を離れていった人々が再び還ってくる日を待続けているのは、親か兄弟でなければならなかったのだ。

千秋は、大切にしていたものを二度とも与えて去っていった。そのことに思い至ったとき、遠くに海鳴りを聞いた。下田の海に繋がっているこの北の海に、別れを伴わない三度目が訪れることを、祈ってはいけないのだろうか。

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