第3回伊豆文学賞 優秀賞受賞作品『清流のほとり』

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ページID1044456  更新日 2023年1月11日

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『清流のほとり』

石川たかし

夜明け前に周作は目を覚ました。妻の里江はまだ静かな寝息をたてていた。

両脚と腰のあたりに鈍いだるさが残っている。体はもう一眠りしたがっている。けれど目が覚めてしまった。最近こういうことがたまにあるようになった。年をとると早く目覚めるようになるというのは、こういうことなのか、と周作は思った。そう思いながらもしばらくは体を横たえていた。けれど眠れそうにはなかった。

窓の外の闇がうすらいでいくのを確かめて、周作はそっと布団からはい出た。里江を起こさないように気を配りながら身づくろいをすると、外へ出た。

朝の冷気が鼻に心地よかった。夜が明けようとしていた。うす墨色の空が少しずつ明るさをとりもどし、やがて白く輝きはじめるにつれて、天城の山々の稜線がくっきりとその輪郭をあらわにした。生まれたばかりの空気の中で、裏山から筧で引いてきたわき水の落ちる音だけがしていた。

周作はその水で口をすすぎ、顔を洗って深く一呼吸した。それからカマを取りだしてきて、わき水の前で砥石を使いはじめた。ひんやりとした静けさの中で、カマの刃に当たる砥石の音だけが、シャ、シャと妙に大きく響いて、思わず手を止めてためらったが、すぐにまた砥石を持つ手を動かしつづけた。

空が夏の青さをとりもどそうとするころに、背後で戸の開く音がし、それから里江の声がした。
「お父さん、今朝はずいぶん早起きですじゃ。慎一郎が帰って来るんで寝てられませんか。」「なあに、そうじゃあねえ。」周作は立ちあがって里江の方を向いた。「たばこ取ってくれ。」

「朝ごはんの前にたばこは吸わないはずじゃあなかったの。」
里江はにこにこしている。
「今日は特別だ。」
「ほら、やっぱり。」
―慎一郎が帰って来る日だから、やっぱり特別な日なのだ、と里江は言いたかったのである。

それは里江も同じ思いであった。今日は一年ぶりで息子の慎一郎が帰って来るのである。一週間前に慎一郎から電話でその連絡をもらってから、周作も里江も今日の日を心待ちにしていた。

里江はなみなみと湯をそそいだ大きな湯のみとたばこを持ってきて、
「たばこを吸う前にこのお湯をすっかり飲んでくださいよ。」
と、灰皿とともに置いて行った。

慎一郎が横浜の商事会社に就職してすでに数年がたつ。

周作は商事会社というものが、もう一つよくわからないでいた。かつて一度、
「おまえはどんな仕事をしているだ~」
と聞いたことがある。慎一郎は、
「商事会社だよ。」
とだけ答えた。それきりだった。周作が聞こうとしたのはそういうことではなかった。何か重い物を運ぶのか。汗はかくのか。夏は暑い思いをするのだろうか。冬は足腰が冷えたり痛んだりするのだろうか。そういうことだった。周作にしてみれば、働くということは体を使うことであった。何か物を持ったり運んだりすることであった。けれど慎一郎はそのようなことをしている様子はなかった。そんな仕事があるものだろうか。もしかしたら役場の役人のようなことを毎日やっているのではあるまいか。今度帰ってきたらそのへんのところをもう一度聞いてみよう、と周作は思っていた。

山すそによりそうように清流が流れている。上流にはわさび田が広がっている。清流にそって舗装路が続いている。道は下って国道に合流し、清流は下って狩野川にそそぐ。

道路から少しはいったところに周作の住まいはあった。家の周囲の田と畑を耕し、しいたけの栽培をして、周作は里江と暮らしていた。

道路と清流を隔てた向こう側の山を眺めるのが、周作は好きだった。柿の木の根本に腰をおろして、小一時間もそうしていることがよくあった。竹林が風にゆれる姿や、山の上を雲が移っていく様をじっと眺めてあきなかった。そうしていると何も考えずにいることができた。時のたつのも忘れられた。何も考えず、何も思わず、体も心もすっかりなくなってしまって、しまいには自分が向こうの山に溶けこんでしまうような気持になることすらあった。

朝食をすませると、その日も周作は柿の木の下へ行って腰をおろした。陽はだいぶ高くなっていた。昼間は暑くなりそうな気配だった。山の木々の葉は、すでに夏の陽を受けて光っていた。

慎一郎の友だちの明に子供が生まれたころのことを周作は思い出していた。明と慎一郎は同年である。子供の時分には、どちらが自分の家だかわからなくなるほど、互いに入りびたって遊んだ仲である。山へはいるのも、川遊びをするのも、二人はいつも一緒だった。周作にとっても、明は自分の子と同じほど近しい感じがしていた。いま明はこの地でサッシ店を経営している。

若葉が萌え出るころに、明に男の子が誕生した。赤ん坊を一目見たくて明の家へ行ったとき、周作は、
「いい時に生まれたな。新しい命が生まれるのにいちばんふさわしい季節だものなあ。」と言った。そう言われて、明も、妻の春子も喜んだ。赤ん坊は座布団の上に寝かされて、手足をもぞもぞと動かしつづけていた。小さな手の細い指の先端に、オブラートのように薄い透明な爪が生えているのを、何か不思議な気持で見たのをおぼえている。

毎年のことながら、新緑の山の美しさは、目を見はるものがあった。冬のあいだ葉を落としてひっそりとしていた木々たちが、ある日ふいに、いっせいに芽ぶきはじめるのである。はじめそれらは、緑というより白っぽい色をしている。山のあちらこちらから、やわらかいうぶ毛のような新芽が粉をふいたようにわき出てくるのである。そしてわずか数日のうちに、それらはみずみずしい黄緑色に変わっていく。山々は新鮮な葉の群れにやわらかくおおわれて生まれ変わる。出そろった若葉たちが陽に光りながら清涼な風に吹かれてゆれるさまは、まるでおさな児たちがより集まって、いっせいに小さな手をふっているように見える。山は歓喜にわきかえって笑っているようであった。

そして梅雨をへだてたいま、山の緑はより濃く、深く、厚くなって、真夏の光を照り返して輝いていた。

「お父さん、明さんの所へ行ってきて下さいよ。」
里江の言葉にうながされて、周作は腰を上げた。きのうの夕方里江が洗濯物を取りこもうとした時、もの干しざおの先で、玄関わきの小窓のガラスを割ってしまったのだった。
「なにも慎一郎が帰って来ようって時に、こんなことをしなくたっていいものを。」
周作はそんなを言いながら、ガラス戸をはずしにかかった。
「お手数かけますね。」
悪びれずに里江は言った。
「今日は家のまわりの草も刈らにゃならねえ。」
「あとでわたしも手伝いますよ。」
「おめえはいいよ。」
「料理の下ごしらえをして、まんじゅうをふかし終われば手があきますから……」
「またまんじゅうか。まんじゅうなんか作ったって慎一郎は食うもんか。」
「そんなことありませんよ。」
そう言ってはみたものの、周作の言うことの方が正しいことくらい、里江は承知していた。
周作も慎一郎も酒が好きである。甘いものはにが手である。それでも何かあると里江はまんじゅうを作る。ほとんど自分のためである。
何かしら理由でもないと里江の口に甘いものがはいることはないからである。

ひび割れたガラスがはいったままのガラス戸をそっと軽トラックの荷台に乗せているところへ、文造がはいってきた。
「ばあさんがいねえ。」
周作に近づくや、文造はいきなりそう言った。周作は文造の言うことがのみこめなかった。「ばあさんがいねえって、どういうこった。」と周作はきき返した。
「ばあさんがいなくなった。」文造はくり返した。その時周作はようやく、文造の顔色に気がついた。文造はかなり困っている様子だった。
「まあまあ、もうちっとわかるようにものを言ってみろや。いつからいなくなっただ。」
「わからねえ。」
「わからねえって……、おめえ最後にばあさんを見たのはいつだ。」
「ゆうべだ。」
「ゆうべ?」
「ゆうべ、ばあさんが寝て、それから少しして俺も寝たァだよ。」文造も少しは落ちつきをとりもどしたらしく、ゆっくりと事のなりゆきを説明しはじめた。「けさ五時半ごろおきてばあさんの部屋ァのぞいたら、いねえだよ。また庭で草でもむしってるずらと思ってはいたァだが、それでも心配になって外を見ただよ。そしたらいねえ。家のまわりもぐるりと見たが、やっぱりいねえ。」
「裏の山の方は見たか。」
と周作はきいた。
「見た。」
「どうだった。」
「いねえ。いねえだよ。家のまわりにゃどこにもいねえ。」
「ゆうべいたのなら、今朝早く出かけただろうな。」周作はつとめてゆっくりとした口調で言った。「暗いうちから歩きまわるようなこともなかろう。」
すると文造も、
「どうせ足腰は弱ってるし、杖がなきゃあ歩けねえ体だから、そんなに遠くへ行けるわけはねえだ。」
「だからと言って……」
安心だということにはならないだろう、という言葉を周作はのみこんだ。二人はしばらく黙ったままでいた。とりあえず何をしたらよいのか、すぐには判断がつきかねた。
「この陽気じゃあ、寒さで体がまいるということもなかろうが、それでも消防に連絡した方がよかねえか。」
「それはできねえ。」消防と聞いて、文造は言下に否定した。「おおげさにはしたくねえ。」「それでも沢にでもはまって動けなくなっていたら大変だぞ。」
そう周作が言うと、文造は、
「なあに、近くにいるにきまっている。」
と言ったきり、黙りこんでしまった。
前にも一度、カツヨばあさんの行方がわからなくなったことがある。昨年の、やはり暑い時分のことだった。
夕方文造が畑仕事から帰って来ると、いつも台所で夕食のしたくをしているはずのばあさんの姿が見えなかった。日の長い時期だっただけに、文造はたいした心配もせず、一杯やりながら、待つともなく待っていた。けれど暗くなってもカツヨばあさんは現われなかった。立ち寄りそうな所に連絡してみたがどこにもいない。そこでようやく文造はあわてだした。すぐに周作に相談をかけた。周作も、周囲の者も、何がおきたのか見当もつかず、何から手をつけたらよいのかわけもわからず、だれが言い出すともなく消防に連絡を入れることになった。
消防とともに近隣の男たちが、手に手に懐中電燈をもって文造の家のまわりに集まった。静かな、夜はめったに車の通ることもない山里で、闇に懐中電燈の光がゆれ動くさまは、異様だった。
結局その時は、捜索が始まって一時間たらずでカツヨばあさんは見つかった。一キロメートルほど離れた人家の勝手口の暗がりで、つけもの石に腰かけてぼんやりしているばあさんを、消防の若い男が見つけてくれたのだった。そして、このでき事ではじめて、カツヨばあさんに徘徊の癖があることが判明した。
あの時のことを文造はいま言っているのだと、周作はわかった。捜索開始からたいして時を経ずにばあさんが発見されたことは、喜ばしいことのはずであるが、「ささいなことで大げさなことをした。」と文造は思っているのだ。
文造の気持を思えば、周作もあまり大げさにさわぎたてることもできなかった。とにかく、カツヨばあさんに再び徘徊の癖が出たことだけは確かなようである。ただ、二回目とはいえ、心配なことにかわりはない。明るくなってから家を出たというのはこちらの勝手な推測で、いつ出かけたのか、今どのあたりにいるのか、実は全くわからないのである。
「お父さん、とにかく行ってあげてくださいよ。」
黙りこんでいる周作に里江は声をかけた。
「そうしよう。さがすしかあるまい。」
「たのむ。」文造もようやく声をだした。それから軽トラックの荷台に置かれたガラス戸を見つけると、「このガラスはどうしたね。」と周作にたずねた。周作が、ガラスが割れたいきさつを説明すると、文造は、
「じゃあ先に山田サッシへ行って来いや。」と言った。
「こんなものはあとでもいい。」
と周作は言った。今日は慎一郎が帰って来る日であることは、ふせておいた。文造が気にして遠慮したりしては気の毒である。
「いいから先に行って来い。」文造は決めつけるように言った。「そのあいだにおれは朝めしを食っておく。」
「なんだ、めしはまだだったのか。」
朝起きてからずっと今まで、めしも食わずにばあさんをさがし続けていたのだ。さがしあぐねてここへ来たのだ、と周作は思った。
「文造さん、よかったらうちで食べていきなさいよ。みそ汁もまだ残っているし、つけものぐらいならあるよ。」
里江がそう言うと、
「めしぐらいうちで食うからいい。」
と文造は言い放った。日焼けした顔が少し怒ったようになっていた。ふだんなら、里江にすすめられれば何でも遠慮なく口にする文造である。が、人の力を借りる時、できるだけ相手に負担をかけないようにつとめるのも文造である。あまりしつこくすすめると文造は怒り出してしまう。「もういい。たのまぬえ。」そんな声が聞こえてきそうである。ここは文造の言う通りにした方が無難であることを、周作は知っていた。
「じゃあ、明のところへいったん寄って、それからおめえの家へ行くからな。待っていてくれ。」
周作がそう言うと、
「すまねえ。」
一言言って、文造は出て行った。カツヨばあさんに徘徊の癖があるとわかってから、文造はばあさんに、刃物も火もあつかわせなくなっていた。食事のことはすべて文造がやっていた。朝めしも、きっと自分で何かしら工面してすませるのだろう。
ばあさんは文造の作るものを口にして、一日じゅう草むしりばかりしている。足腰が弱っているので、半畳ほどのむしろにすわりこんで、自分いるまわりの草をむしる。むしり終るとむしろを移動して、またその上にすわりこみ、まわりの草をむしり始める。そんなことをして一日をすごす。幸い、簡単な掃除や小さな物の洗濯ぐらいはまだばあさんにもできたが、それもしたりしなかったりである。家事のほとんどを文造がやっている。文造自身、そろそろだれかに面倒みてもらいたい年令である。カツヨばあさんとの暮らしはさぞや文造にとって負担だろうと、周作は日ごろから思っていた。

若いころ、文造は一度結婚したことがある。だがわずか二ヵ月ほどで嫁は実家にもどってしまった。母親との折合いが悪かったようだ。四十年も前の話である。以来文造は一人身を守りつづけ、いまは母親のカツヨとの二人暮らしである。

そのころ、一度結婚に失敗した者は人生の敗残者であるかのように考える者があった。二度結婚する者は不潔であると思う者もいた。
「そんなばかなことがあるものか。」
周作はどこからともなく聞こえてくるそうした声に、腹の底から反発した。周作もまだ若かった。
「だれかいい人がいたら、結婚すればいい。」
周作はよく文造にそうすすめた。

文造が少数の心ない声にひきずられたわけでもないだろうが、それ以来、文造は周作の言葉には耳もかさず、二度と結婚しようとはしなかった。そしてやがて、自らのまわりに柵を作り、だれをも寄せつけなくなった。周囲の者が彼を疎んだというのでは決してなかった。むしろ文造の方から殻にとじこもり、そのまま出てこようとしなくなったと言った方が正確である。

ただ、周作とだけはよく気が合った。周作とだけはよく口をきいた。今では周作だけが、文造と外界をつなぐパイプのようなものであった。

カツヨばあさんがしっかりしているころはよく、文造は酒を下げて周作をたずね、里江の作るつまみで一杯やったりもした。二人とも酒は好きだが、それほど強い方ではない。一杯目のコップ酒でほどよい心持ちになり、二杯目で、オイ、オマエ、と冗談を言い合うようになり、三杯目を飲み干すころには眠くなってしまい、
「酒は居酒屋周作にキープしておく。」
などと言い残して、文造は少しふらつく足どりで家へ帰って行った。

カツヨばあさんに徘徊の癖があるとわかってからは、そんなこともずっと少なくなっていた。

国道ぞいの山田サッシ店の作業場では、朝から明と職人の直也が、サッシの組立作業に精を出していた。明け放たれた窓からは、背後を流れる狩野川の川面を渡って来る涼しい風が、吹き込んでいた。二台並べた仕事台で二人黙々と作業を続けているところへ、周作がガラスの入れ替えをたのみに現われた。
「慎一郎が帰って来るっていうのに、玄関のガラスが割れていたんじゃあ気分が悪いからなあ。」
ガラス戸を明にさし出しながら、周作はそう言葉をそえた。
「へえ、慎ちゃんが帰って来るの。いつ?」
明がうれしそうな声できいた。
「今日の夕方着くそうだ。」
「久しぶりだねえ。」
「ああ。今年の正月はスキーに行っていて帰って来なかったから、一年ぶりだなあ。」
「おじさん、うれしいね。おれも慎ちゃんの顔を見に行くよ。」
竹馬の友が帰省すると知って、明は大いに喜んだ。
「ぜひ来いよ。」
「しばらくいられるんでしょ。」
「四五日はいるらしい。」

そこへ隣の事務所から、明の妻の春子が、お茶を持って出てきた。春子はビールのケースを裏がえした台に、盆ごとお茶をのせ、
「おじさんは暑い時でも熱いお茶でしたよね。」と、パイプ椅子を広げた。
「やあ、すまないねえ。」周作は椅子に腰をおろすと、お茶を一口すすり、「しかしそうもしてはいられねえだ。」
と言った。
「なにか用事でもあるの。」
と明がきくと、
「実はなー。」カツヨばあさんがいなくなったことを周作は説明した。「これからさがしに行ってみるのさ。」
カツヨばあさんに徘徊の癖があることは明も知っていた。
「文造さんも大変だねえ。」
明はようやく仕事の手を止めた。
「だからって、ばあさんを柱にしばりつけておくわけにもいくまい。……それにしても人ごとじゃあねえ。老いはだれにでもやってくる。」自分に言いきかせるように、周作はぽつりと言い、「それじゃあ行ってみるわ。」
と茶碗を盆にもどし、
「ガラスは夕方までに間に合えばいいから。」
と告げて立ちあがった。
「待って、おじさん、おれも行くよ。」
「あんた、いそがしいだろう。」
「あさってから現場で取り付けにはいるから、今はその段取りさ。今日のところは直さん一人で間に合うからだいじょうぶ。こういう時は一人でも多い方がいいよ。」
そう明は言い、「直さん、たのむ。」と隣の直也に一声かけた。直也はこっくりとうなづいた。

周作の軽トラックのあとを、明の乗用車が追った。

高校を卒業するとすぐに、明は三島の電機部品会社に就職したが、就職して三年たったころ、突然明の父が他界した。そのため明はようやく慣れた会社を退職し、家業を引きつぐために店にもどって来た。

店をつぐといっても、若い明に何ができるというわけでもなかった。子供のころから父の仕事を見て育ったとはいえ、あらためて自分の責任で始めるとなると、それはまた容易なことではない。心筋梗塞で往った父の死はあまりにも突然すぎた。

とりあえず、職人の直也に仕事を教わることから始めるしかなかった。直也はなくなった父よりも少し年上である。雇い主であると同時に弟子という立場の明と、雇用人でありながら師匠でもある直也、そういう二人の奇妙な関係がしばらく続いた。直也は明がきくことはなんでも親切に教えてくれた。決して下にものを教えるような口のきき方はしなかった。明の方も、直也の言うことはすなおに受け入れた。それでも明にとって、この二人の関係は、どこか気疲れするところがあった。

現場での仕事はともかくとして、工務店との交渉や、材料問屋との商談の仕方となると、だれに教わるわけにもいかず、自分で考えて身につけるしかなかった。なにもかもが初めての経験だった。あの若さでサッシ店の経営がつとまるものだろうかとあやぶむ声もあって、明はそれなりの苦労を味わった。

そんなとき、明はいつも周作をたずねた。仕事のぐちをこぼすようなことは一切せず、明はしばらく世間話をすると帰って行ったが、周作は明が苦労していることはすぐに察しがついた。父をなくしてからの明は、それまで以上に周作を慕うようになっていた。周作も、慎一郎が離れて暮らすようになって、よけい明を近しいものに感ずるようになっていた。職人の直也にひと通りの仕事を教わり、店の経営の仕方もなんとかおぼえると、明は春子と結婚した。

直也は口をきかない男で有名である。必要なこと以外は一切しゃべらない。気に入らない相手だと必要なこともしゃべらない。
「本当は口がきけねえんじゃねえか。」
ときには本気でそんなことを言う者もいた。

直也はもともと腕のいい建具職人だった。
あるとき、取引相手の工務店が倒産し、事業主は夜逃げをして行方がわからなくなり、直也はその月の材料費の仕はらいにも困る事態におちいった。そんなとき、明の父が直也に手をさしのべた。現場でちょくちょく顔を合わせる仲だった。明の父は直也の仕はらいをしばらく肩がわりし、同時に直也をサッシ店に雇い入れた。もともと腕のいい職人だっただけに、直也はサッシ店でもいい仕事をした。山田サッシ店は直也が来て、大いに助かったと言っていい。

明の父は直也に対し、救ってやったなどというそぶりを見せたことは一度もなかった。また建具の仕事にもどりたければ、いつでももどるようにと、よく直也に言っていた。けれど直也は山田サッシ店を去ろうとはしなかった。山田サッシ店に通いつづけ、黙々と日々の仕事をこなしつづけた。

文造は縁側に腰かけてたばこをふかしていた。周作と明の姿を見ると、文造は火をつけたばかりのたばこを消して立ちあがり、二人に近寄って来た。明の姿を見ても、文造は顔色を変えなかった。明と周作の関係は文造もよく知っている。人間嫌いの文造も、明なら心が許せるようだった。周作はほっとして、
「めし、食ったか。」
ときいた。
「食った。」
と文造が言った。

とりあえずもう一度家のまわりを見てみようと周作が言った。文造はその必要はないと主張した。少しでも早く別の所をさがしたい様子だった。
「たいした時間じゃあない。それに別の目で見れば何かわかるかもしれない。」
というのが周作の提案だった。

夏の強い陽ざしは朝から容赦なく照りつけていた。歩きながら三人は、カツヨばあさんがどちらの方向へ行ったものかと話し合った。
「見当もつかない。」
というのが文造の結論だった。だがそれではさがしようがない。家より上へ行ったのか、下へったのか、それだけでもわからないものだろうかと思案していると、明が、足の悪い人間は下るのが苦手であると言いだした。そうかもしれないと周作も文造も思った。道路はゆるやかな勾配で、下るのに負担がかかるというほどではないが、明の言葉がきっかけになった。家のまわりには何の手がかりもなかった。

清流ぞいの舗装路に出て上の方をさがすことにした。

道ばたの木陰に車を二台止めておいて、三人は歩きだした。明が、いちおう川の方も見てくると言って、一人清流へ降りて行った。この夏雨が少なかった。清流の水量もふだんよりずっと少なくなっていた。川の水に足を取られたり、おぼれたりといった心配は全くなかった。それに、足の悪いばあさんが、清流まで降りて行くことの方が無理である。けれど確かにいないと確信するためには、一度さがしてみる必要があった。

やがて明はもどって来て二人に合流した。
「いなかったか。」
と周作がきいた。
「いなかった。」
と明が答えた。

道の両側に気を配りながら、三人はゆっくりと歩いて行った。右に左に進路を変え、夏草がつぶれているような所はないか、人がすべったようなあとはないか、下ばかり見て歩いた。

陽がすっかり高くなった。額や背中から、汗がふきだしてくる。

周作は少しあせっていた。あてもなく歩くと言うが、これほどあてのないこともあるまい。こんなさがし方でいいのだろうかと思いはじめた。文造があせりだすのも心配だった。
あまりいつまでもばあさんが見つからないとなると、やはりだれか多くの人の手を借りなければならない。そこで文造は、ばあさんが心配という気持と、人の世話にはなりたくないという気持の板ばさみになっていらいらするにちがいない。そうなる前にばあさんを見つけだしたい。それが周作をよけいにあせらせた。

道路と清流の間は杉林になっている。切り立った崖のように清流に向かって落ち込んでいる所と、なだらかな斜面になっている所がある。周作の提案で、ばあさんでも足をふみ込めそうなゆるやかな斜面をさがそうということになった。三人は下草をふみながら、杉林の中へはいっていった。日陰はいくらか涼しかった。時おり下から川風も吹き上げてくる。やがて周作が、
「こうやって黙って歩いてたってしょうがねえ。声を出して呼んでみようや。」
と言い出した。
「それはやめろ。」
文造は即座に反対した。
「どうして。」
明がたずねた。
「人に聞かれる。」
と文造は言った。
「何を言ってるだあ、こんな時に。」とうとう周作が声を荒げた。「聞かれたら聞かれたでいいじゃねえか。なんなら一緒にさがしてもらえばいい。何か手がかりがあるかもしれねえじゃねえか。」
文造をしかりつけるように言うと、周作はいきなり、
「おおい、ばあさん。カツヨばあさん。」
と大声をはり上げた。
「よせ。おいよせ。」
あわてて文造が止めた。周作はかまわずに、
「おおいー。」
と声を上げつづけた。明も一緒になって
「カツヨばあさァん。」
と声をだした。文造は何かに窮したようにうつ向いてしまった。

「おおい、カツヨばあさァん。」
何度目かの声を上げた時、前方でガサガサともの音がした。しげみがゆれた。三人ははたと足を止めた。上方の夏草がゆれ、人影が現われた。

若い娘だった。紺のズボンに白いTシャツ、白い帽子をかぶり、小さなバッグを背負った娘がすっくと立ってこちらを見ていた。元の人間でないことは一目でわかった。娘はいぶかしそうな目でこちらを見ていたが、事情がのみこめないまま、
「コンニチワ。」
恐る恐る声を出した。
「やあ、おどろかせてすまなかった。」周作がつとめておだやかな口調で話しかけた。
「実はこのあたりのお年寄りが行方不明になっていてね、いまさがしているところさ。」
「八十すぎの足の悪いおばあさんなんだけど、だれかそれらしい人を見ませんでしたか。」
明がたずねた。
「いいえ、そんな人には会いませんでした。」
娘は少し安心した表情になって、そう答えた。娘はそこから道路へ出て、下へ降りて行った。

三人は横一列になって、杉林の中を歩いていた。下草や杉の落ち葉をかきわけながら、人の歩いた跡がないか見つづけていた。

道路をかけてくる足音がした。三人の近くで足音が止まり、道から杉林に向かって、
「すいませーん。待ってくださーい。」
と女の声がした。先ほどの娘だった。娘は三人の姿を見つけると、杉林の中にはいって来た。ハアハアと肩で息をしている。
「そのおばあさん、杖を持っていませんか。」
と娘は言った。杖を持っていると文造が言うと、娘は、
「この少し上に小さな小屋があるんですけど、そこに杖が立てかけてあったのを思い出したんです。さっき見た時は気にも止めなかったんですけど、もしかしたら……。」
もしかしたらカツヨばあさんのものかもしれない。三人は同時に思った。
「行ってみよう。」
明が叫んで先頭をきって歩き出した。娘もついてきた。

上流でわさびの栽培をしている人たちの小屋が、この上にある。カマ、クワ、カゴなどの農具や、不意の雨にそなえての雨具などが入れてある、物置ほどの小屋である。

娘の言う通り、小屋には杖が立てかけてあった。三人に緊張がはしった。
「ばあさんのか?」
周作が文造にきいた。
「そうだ。」
文造が答えた。皆で恐る恐る小屋に近づいた。

明がそっと扉を開けた。

薄暗がりの小屋の中に、農具にまじって人影があった。板を並べた土間に、カツヨばあさんが、膝をかかえこむようにして坐っていた。突然文造が、
「おめえ、こんなとこでなにやってるだァ。」
とどなった。まあまあというように、周作が腕で文造をさえぎった。

すると娘が三人をすりぬけて小屋にはいり、ばあさんの横に寄りそうように身をかがめて坐った。そして、
「おばあさん、だいじょうぶ?」
ゆっくりした口調で話しかけた。
「おばあさん、ねえ、おばあさん。」

娘の言い方は幼児をあやすようであった。
「どこか痛いところない?」
娘はなおも続けた。カツヨばあさんには反応がない。放心したように前方を見ているだけである。
「耳が遠いんですか。」
娘は三人のだれということもなくたずねた。
「耳は聞こえるはずだ。」
文造が言った。
「じゃあ、おばあさん、腕をこうしてみて。」
と娘は自分の腕を曲げたりのばしたりして見せた。カツヨはじっとしたままである。目の前にいる者たちがだれなのかもわかっていない様子である。
娘はカツヨの両腕をゆっくりさわってみ、それから手首を手にとって腕の曲げのばしをさせ、さらに膝から足首にかけて、もんだり動かしたりした。
「だいじょうぶね。痛くないわね。」
ゆっくりと娘はカツヨばあさんに話しかけ、三人の方を見上げて、
「けがはしていないようですね。」
と言った。
「ばあさん、腹へったか。」
文造が、どなるような調子でそう言った。するとカツヨはふいに泣きだした。前方を見つめたままの両の目から、次から次へととめどなく涙があふれ出してきた。声は全く出さなかった。文造が腰のタオルをカツヨの膝に投げた。
「やっぱり心細かったんですねえ。」
娘が言った。カツヨはタオルを目に当てると、声を出さずにさらに泣きつづけた。
「おばあさん、もうだいじょうぶよ。」
娘はやさしく言って、カツヨの背中をさすりつづけた。
「さあ、行くべえ。」文造はそう言うと、カツヨの前に腰をおとし、「ほれ、おぶされ。」
と背中を向けた。娘がカツヨのわきに腕をまわし、
「ゆっくりよ。ゆっくりでいいのよ。」
と声をかけながら、カツヨを立たせた。明がもう一方のわきに手をそえ、カツヨを文造の背中に背負わせた。

足許を確かめながら、ゆっくりした足どりで、文造はゆるやかな斜面をななめに道路へ向かった。車をとってくる、と一言告げて、明が文造を追い抜いて走った。

明の車に乗り込んだ文造に、カツヨの杖を渡しながら、娘は言った。
「体が弱っているといけないから、やわらかい物を食べさせてあげてくださいね。熱すぎる物も冷たすぎる物もよくないわ。人肌ぐらいのやわらかい物を少しずつ食べさせてあげて。」
「ありがとう。」
文造の精いっぱいの感謝の言葉だった。カツヨばあさんは後部座席に背中をまるめてすわり、再び放心したようになっていた。

周作は娘が年寄の扱いに慣れていることに感動していた。もしかしたらこの娘は看護婦ではなかろうかと思った。明の車が走り去ると、自分の軽トラックまでの道すがら、周作は娘にそのことをたずねてみた。娘は、横浜の老人福祉施設で雑用係をやっているのだと言った。周囲の先輩たちのやることを見ていて、そのまねをしただけだと、娘は周作と並んで歩きながら話しはじめた。
「でも、わたしなんかまだまだだってつくづく思いました。だってわたしの言葉なんかより、身内の『腹へったか』の一言の方が人の心をを開くんですもの。肉身の力ってすごいものですね。」
「このへんにはよく来るのかね。」
と周作がたずねた。
「ええ、たまに。毎日人間ばかりの中にいると疲れてしまって、たまに一人になりたくなる時があるんです。」
「一人の山歩きは心細くないかね。」
「そんなことありません。」娘は明るい声で言った。「このへんは山も人もやさしいですから。それに山の奥まではいって行くわけではないんです。ほとんど道路を歩いているだけなんです。時おり、道ばたの花なんかを絵にかいたりして。さっきも花の絵をかいていたんです。」
「ほう。絵を。」
「へたなんですよ。」
言いながら娘はバッグからはがき大の絵を二枚とり出して、周作に見せた。一枚には山と清流が、そしてもう一枚には黄色い野の花がえがかれていた。どちらも鉛筆でデッサンをし、水彩絵の具で軽く色付けされていた。確かに上手な絵とは言いがたかった。むしろ稚拙といった感じである。
「これに切手をはって、友だちに送ってやるんです。へただからいいんだって、自分で勝手に思ってるんです。その方がお互いに気が楽ですから。」
周作の軽トラックが見えてきた。娘はさらに続けた。
「この前なんか、今度は何がかいてあるのかわかる絵を送ってください、なんて返事がくるんですよ。」
娘はおかしそうに一人で笑った。
「よかったら、うちに寄ってお茶でも飲んでいってくれないかね。」
と周作はきりだした。
「せっかくですけど帰る時間もありますし、それにわたしもう少し歩きたいんです。このまま歩きます。」
娘はていねいに応じた。そして、
「それよりおじさん、この絵を一枚もらってくれませんか。さっきお会いした時にかいていた絵ですから。」
と娘は花の絵の方をさし出した。
「なんだか逆みたいだなあ。」
「いいんです。そうしてくれれば、わたし、喜びます。」
娘にそう言われて、周作は花の絵をもらうことにした。
「それじゃあ今度こっちへ来たら寄ってくれ。柿の木のある家だからすぐわかる。秋になれば実の赤く色づいているのが道からもよく見えるよ。」
「ありがとうございます。」
娘は頭を下げた。
「あんたにはお世話になったね。」
礼の言葉を告げて、周作は軽トラックに乗り込んだ。
「とんでもないです。」
娘はほほえんだ。走り出した車のバックミラーの中で、山の緑を背景に、白い帽子の娘が手をふっていた。

昼めしを食べながら、周作は里江に娘のことを話し、もらった絵を見せた。すらりとのびた細い茎にそって、並ぶように咲いている、いくつもの黄色い小花の絵である。
「なんの花でしょうねえ。」里江が首をかしげた。
「きんみずひきじゃあなかろうか。」
周作が告げたのは、暑い盛りに細かい花をつける、やや背丈をもった野草の名である。秋になると花は小粒の実になって、カギのような毛で衣服などにまとわりつく。
「ああ、きんみずひきねえ。言われればそうですね。」里江は納得し、「額に入れて飾りましょうか。」
と言った。周作は娘の「へただからいいんです。」という言葉を思い出した。
「額に入れるというのも大げさだろう。ピンか何かで壁にはっておいた方がその絵らしくてよくないか。」
そう周作が言うと、
「それもそうですねえ。」
と里江も同意した。

朝が早かったせいか、暑い中を歩きまわったせいか、昼めしを食べ終わると、周作は急に眠くなってきた。周作はうちわを片手に風通しのよい涼しい所を選んで横になった。じきにうちわを使う手が重くなり、眠りにおちた。

小一時間ほどうとうとするつもりでいたのが、すっかり熟睡してしまった。目が覚めた時は三時をまわっていた。
「起こせばよかったものを。」
という周作の言葉に、里江は、
「慎一郎が帰って来ればどうせ今夜は夜更かしでしょう。今のうちに眠っておいた方がいいですよ。」と言った。「明さんが来ればまた三人で酒盛りになりますよ。」
「庭の草を刈らなきゃならねえぞ。」
「草刈りはあしたでもいいですよ。」
里江はのんきそうに言う。久々に慎一郎が帰って来るから庭をきれいにしておこうということなのに、あしたではなんにもならないと周作が考えていると、
「それより、目が覚めたら、」と里江が言った。「まんじゅうと煮物ができましたから文造さんのところへ持って行ってください。おばあさんの様子も見て来てくださいな。」
「そうすることにするか。」
そんな話をしていると、下から車の上がって来る音がした。慎一郎にしては早すぎると思いながら周作と里江が外に出てみると、山田サッシと大書したトラックがはいって来た。

おりてきたのは直也だった。直也は玄関わきの、戸が片方しかはまっていない小窓を見つけると、黙って手にしたガラス戸をはめ込みにかかった。が、すぐに車にもどり、工具箱から小さなはけのようなものを取り出した。そして一方のはまったままのガラス戸もはずすと、サッシのみぞをていねいに掃きはじめた。
「まあまあ、きたなくしていてすいません。」
里江が言うと、
「こんなところはこういうことでもなきゃ、掃除なんかしねえもんだ。」
小声でぶつぶつと、直也は一人言のようにつぶやいた。

二枚のガラス戸をはめこみ、左右に動かしてすべり具合をためし、鍵のかかり具合を確かめると、直也はさっさと車にもどってしまった。
「あ、直也さん、すいません。」あわてて里江が声をかけた。「あの、お勘定を……」
「そんなこたァおれは知らねえ。親方に言ってくれ。」
はきすてるように直也は言った。里江はなんだかしかられたような気がした。すると直也は、
「慎ちゃんが帰って来るだってな。よかったな。」
山に向かってでも言うように、遠くを見てそう言った。頑固そうな顔がいくぶんやわらいだように見えた。

車の向きを変えて、直也は出て行った。

周作と里江はトラックのうしろ姿を見送った。
「直さんがしゃべったよ。」
「しゃべりましたね。」
「おれたちは嫌われてはいないようだな。」
「そのようですね。」
見送る姿勢のまま、里江が言った。トラックが舗装路に出たところで、里江は深々と頭を下げた。

二人はしばらくそのまま立ちつくしていた。陽はかたむき始め、風にいくぶん涼しさが加わってきた。今度この道を登って来るのは慎一郎の車にちがいない。周作も里江もそう思いながら立っていた。

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