第9回伊豆文学賞 審査委員選評

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ページID1044405  更新日 2023年1月11日

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〝孤〟の苦しみに耐える力

杉本 苑子

今回、選考の最終対象となった十編のうち、最高点を獲得して最優秀賞に選出されたのは、西村美佳孝さん(女性)の『奈緒』、優秀賞が片桐泰志さん(男性)の『風待ち』、佐藤和哉さん(男性)の『初照』、佳作二編には、松下早穂さん(女性)の「アイゴー・アミーゴ」と坂東亜里さん(女性)の『中居の生活』の五編であった。
近ごろは、さまざまな分野で女性の進出が目ざましいが、伊豆文学賞も候補者の数では、女性が男性を上回るケースが少なくない。
首位を獲得した西村さんの『奈緒』は、書き出しの数行など、なかなかうまく、筆運びも巧みだし、素人(しろうと)離れしている点、向後に充分望みの持てる作者に思えた。浜辺に育った従弟(いとこ)同士の、淡い愛情が巧みに、嫌味(いやみ)なく描かれていて、一読、印象に残った作品であった。
優秀賞の『風待ち』は、題名があっさりしすぎている。読み手の関心を、作中に曳(ひ)きずり込んでゆく力に乏(とぼ)しい。内容じたい、松崎慊堂という地味な人物を扱っているのだが、調べはよく行きとどいて、文章に気品があり、通俗に堕さなかった点を私は評価した。
『初照』は、これも題名でつまずいた。ハツテルなのか、ショショウなのか、読み方に少々戸惑(とまど)ったが、灯台(とうだい)にはじめて灯(とも)った明(あ)かりをさす専門用語だと、あとで判(わか)った。
書き出しは勿論、文章全体が手馴れていて〝プロフェッショナルな書き手〟という印象を受けたし、将来が期待できる楽しみな素質の持ちぬしとも思えた。
佳作二編のうち『アイゴー・アミーゴ』は、ことさら入り組んだ筋作りをしているわけではないが、ドラマチックな印象を受けるふう変りな作品である。とりたてて「面白い」とは言えないけれど、「けっして、つまらなくはありませんよ」と反論できる作品だし、いま一編の佳作『中居の生活』も、ベタつかない、さっぱりとした筆はこびが、読後の印象を小気味よいものにしていた。
この賞にチャレンジした多数の書き手たちの、向後の努力と作品の成果に期待したい。「小説を書く」という作業は、本来、孤独なものである。「孤」の苦しみに、どれだけ耐えられるかが、これからの課題となるだろう。

心強い思い

三木 卓

今年もいい作品が多く、心強い思いをしたが、その中から西村美佳孝さんの「奈緒」にもっとも注目した。ヒロインの奈緒は高校を出たばかりで、雲見温泉の漁協に就職がきまっているのに、それを蹴ってひそかに上京を企て、去っていく。その始終を目撃している年下の従兄弟の語りで展開していくこのものがたりは、最初は若い二人の恋を素直に描くのかと思わせるが、後半になると意外な事情が明らかになっていき、それにつれて、奈緒という少女が生き方を自己決定していく姿が大きくクローズアップされてくる。ぼくは、快く背負い投げされた。事件に未だ気づいていない義父の姿で終るのもいいと思った。
片桐泰志さんの「風待ち」も、とても気持のいい作品だった。幕末から維新の開港へと向う時代を背景にして、掛川藩の青年藩士が伊豆の飛び地に左遷されることからはじまるこの物語は、そういう状況のなかで多様な体験をしたから成長していく姿を自然な筆で書いている。そして、この時期の掛川や伊豆の文化や教育を支える人と力が背後にいきいきと浮き出してくるあたりなかなか興味深かった。
佐藤和哉さんの、「初照」は、知的な作品である。この作品の読みどころは、ヨットの視点から見た伊豆半島で、ぼくは砂地で人の手が加わっていない入り江などというものが日本にはもはやあり得ないということをまず教えられた。そして主人公は、亡き友人画家の妻で、もと医師だったヨーロッパの女性とともに、とうとうひそかに目をつけていた、ヨット侵入が困難で、だれも試みていないと思われる入り江に入りこむことに成功する。小説であるから、いろいろと事情が書きこまれているが、つまるところ、この達成感が心に強く残る。作者はおそらくヨットの詩情をずっと愛して来た人であろう。
佳作は二編。松下早穂さんの「アイゴー・アミーゴ」は、老残の好色だった男が、拒食症で死んでいく女性のピアノ教師をみとる物語で、いささか露悪的な描き方だが、作者の〈生〉への感触はたしかである。坂東亜里さんの「中居の生活」は、小説ではなく、大学を出たばかりの若い女性が派遣社員としてホテルの中居として働いた体験記。裏のようすもわかるし、表のようすもわかる。そこからでなければわからないおもしろい発見がある。淡々とした叙述にはユーモアがあり、哀感がある。

激戦のあげく

村松 友視

今回の応募作の水準は、かなり高かったと思う。とくに、「奈緒」と、「風待ち」の二作品のどちらを最優秀賞とするかは、作品の流儀のちがいのようなものもあり、むずかしい問題だった。
「風待ち」は、作品の完成度、安定感において、今回の応募作の中で最高点を与えるべき内容だった。十分に小説の文章と成り得ているし、登場人物の相互関係も、実にスムーズに織り成されている。“弓”という世界も生きていて、掛川藩の飛び地としての伊豆松崎という土地を舞台とする設定もなかなかだった。最後に、松崎に留任することの決意が、“風待ち”の港として栄えた松崎湊とかさなり、小説の結構として見事だった。
「奈緒」は、主人公の少年潤の奈緒への純情の愛と、奈緒の義父への屈折した愛が、説得力をもって描かれている。読み終ったあと、その後の物語を読者にゆだねているあたりも、なかなかの出来栄えだ。その作品を読んだあとの手応えの強さが、ウェルメイドな秀作「風待ち」を上回る評価で最優秀賞となる要素だった。このように、二作品の評価は僅差であったことをご報告しておきたい。いずれにせよ、実力者同士の見応えのある決勝戦だった。
「初照」は、これまでの伊豆文学賞の応募作品の中でも、きわめてめずらしいテイストの作品で、英国人女性ヘレナと主人公の微妙な関係が、うまく描き出されていた。ただ、全体に小説として気になる言葉遣いが多かったのが残念だ。「中居の生活」は、面白く読んだ。実体験をへてはじめて書くことのできる興味深い場面が、読み応え十分だった。この作者の眼差しは、物を書く人のものだと思った。「アイゴー・アミーゴ」が、女性の書き手だったことには、選考委員全員がおどろいた。登場人物の擬悪的な言葉遣いを、私などは七十を過ぎたインテリ老人の生み出した遊びのセリフと思ってしまったのだから、一杯喰わされた感じだ。そのこと自体、作者のしたたかな知性のあらわれだろう。知的水準と文の芸がかみ合えば、魅力ある作者となり得る人であることはたしかだ。いずれにしても、激戦の第九回伊豆文学賞であった。

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