県の概要 県の成り立ち
現在の静岡県にあたる地域は、江戸時代には、幕府の直轄地、旗本の知行地、諸大名の領地などが複雑にいりくんでいました。
明治4年7月の廃藩置県の時点で、現在の静岡県には韮山県(伊豆)、静岡県(駿河、遠江)、堀江県(浜名湖北部)の3県がありました。同年11月、韮山県は足柄県の一部となり、遠州には新たに浜松県ができました。
そして、明治9年4月の足柄県廃止に伴い、旧伊豆の国が静岡県と合併したのに続き、同年8月21日に浜松県と静岡県が合併したことにより、現在の静岡県が生まれました。
静岡藩の成立
1867年(慶応3年)10月、第15代将軍徳川慶喜が将軍職を返上して、家康以来約260年間にわたって続いてきた江戸幕府が消滅しました。あくまで徳川家を滅ぼそうとする薩摩・長州と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まりましたが、慶喜はいちはやく朝廷へ「恭順」する態度を決め謹慎生活に入ったため、徳川家へ下された処分は駿河・遠江70万石への移封という軽いものであり、同家は取りつぶしをまぬがれました。
こうして1868年(慶応4年)5月、駿河府中藩(1869年(明治2年)、静岡藩と改称)が成立しました。
駿府藩がまず着手した事業は、人材の育成でした。幸い、同藩には幕末期に幕府が莫大な予算を使って貪欲に吸収した洋学の知識がそのまま残されていましたし、また開成所など幕府の教育機関に所属していた当代一級の学者たちも残らず駿府に移住してきていました。このような学問・文化の力を利用して旧幕臣たちは徳川家の再興を図ろうとしました。駿府学問所(静岡学問所)が開校されたのは新藩主徳川家達が入府してわずか2ヶ月後のことでしたし、また沼津に兵学校が開校したのも翌年1月でした。学問所には、勝海舟により、エドワード・ワーレン・クラークという新進気鋭のアメリカ人研究者が招かれました。彼はまだ大学を出たばかりの22歳でしたが、知識欲にあふれた学生たちに体当たりで教育をほどこし、彼らに多大な影響を与えました。また、たくさんの書物が学問所・兵学校で編集・刊行され、静岡ならびに沼津は当時の日本の文化の中心地となりました。
静岡県の成立
1871(明治4)年7月の廃藩置県により静岡藩、堀江藩は廃止され、新たに静岡県、堀江県が置かれました。さらに、同年11月、静岡県は駿河国域の静岡県と遠江国域の浜松県に分割され、また明治維新直後に伊豆に置かれた韮山県は足柄県に編入されることになり、こうして静岡・浜松・足柄の三県時代に入りました。一方、明治維新の混乱の中で、遠江国堀江に陣屋を持つ大沢基寿は、石高を1万6石と虚偽の申告をして新たに大名に取り立てられ、堀江藩が誕生しました。ところが御家騒動の中でこの不正が発覚し、同年末、堀江県は廃止され、浜松県に編入されました。
廃藩置県により全国には3府302県が置かれましたが、新政府はこの統合に取り掛かり、この動きの中で、1876(明治9)年4月には足柄県は廃県となり静岡県に編入、また8月21日には浜松県も廃止され、静岡県と合併した結果、現在の県域の静岡県が誕生しました。
「静岡」の由来
府中という地名はたとえば駿河府中、甲斐府中のように特定の地名を表すと言うよりも、むしろ地方の拠点をあらわす名称です。明治2年、新政府はこのまぎらわしい名称を避けるため、駿府藩に対して府中という地名の変更を命じてきました。藩内で検討した結果、「静、静城、静岡」の3つを考案し、政府に報告しましたが、このうち「静岡」が採用され、6月の家達の藩知事任命の際、初めて使用されました。なお、「シズオカ」の「シズ」は賤機山に由来すると言われています。
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