第1回伊豆文学賞 最優秀賞受賞作品「紙谷橋」

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ページID1044465  更新日 2023年1月11日

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紙谷橋

池田 陽一

岸辺を枯れ葦におおわれた修善寺川に沿う畦道を、一時半までに上ってくると約束した深沢百合が、三十分経ってもまだ見えない。

ときどき雲が切れて日ざしが洩れるなかを、達磨山から吹きおろす西風に風花が舞い、石橋の苔むしたらんかんに散る。ふっと消える風花が、待ちわびる武の期待をしぼませる一ひら二ひらになってきた。

黒いヤッケで寒さをしのぎ、吹きさらしの紙谷橋から畦道のかなたを見つめていた武は、長い吐息をして腕組みを解いた。交通事情で遅れているならば、家に電話が入り、おふくろが連絡に来るはずだがと思いながら、右足を引きずって橋のたもとの空地に向った。

二坪ほどの細長い空地の突きあたりには、桂谷七十八番札所の阿弥陀如来を刻んだ一枚岩の碑が立っている。碑のそばには、古びた小さな石仏三体と鯉を抱いた真新しい幼女地蔵が、赤い肩掛けを着けて並んでいる。
「多恵、ユーネエタンは来ないかもしれんな」

武は、花束を供えられた幼女地蔵を見おろして問いかけた。多恵の一周忌までにと、河津町の沢田石でつくってもらった地蔵は、ここに安置して七日になる。
「オトー。ユーネエタンハ、クルヨ、クル」

断念しかける武の耳の奥に、舌足らずな多恵の声がする。
「待ちついでに、あと三十分待ってみるか」

武は未練の残り火を掻きたててつぶやき、どこで待とうかと辺りを見まわした。

札所の畦道側には、山桜の老木と、一つ根から二本に分かれて伸びた桂と、葉陰から紅のつぼみを無数にのぞかせている藪椿が立ち並び、風に逆らっている。山側の戸田街道までの畑には、切り株の行列を見せる楮と、荒々しく交錯した枝の先に白い花序をつけた三椏が、手漉きの季節の終わりを告げている。

武は、根元から茂る椿の枝葉を背中で押し分け、風を避けて腰をおろした。一年ぶりに会う百合をもとめ畦道を見ていると、脳裏に百合とのいきさつが次々と浮かんだ。

武が百合を知ったのは、東京のデパートで開かれた新茶宣伝をメインとする県物産展の和紙の店であった。町役場から修善寺紙の出品を要請された武は、横にすだれ目模様を入れた白、薄紅、黄、茶などの漉き染めの色好紙や、葉書、便箋、半紙、障子紙のほかに、未晒しの色を残した三椏のジケ皮と楮を混ぜた試し漉きの紙を十枚、越前大奉書の紙型で出品した。書や日本画用としての試作品で、その道の人の目にとまれば幸いだと思っていた。初日に三人連れの若い女性がきて、試作品を六枚買った。武は、人形作りに固められてはかなわんなと、胸の中でぼやいた。

二日目、新茶の香りが会場にただよう開店早々に、中背で細身の女性が急ぎ足できて、「この、紙を三十枚ください」

残りが四枚しかないのを求めた。
「悪いな、そこにあるだけしかないよ」

武が無愛想に断ると、彼女は頬をすぼめてうつむき、襟元から皮紐で巻いて胸のふくらみへ下げた髪を握りしめていたが、
「あのう、これと同じ紙、お宅にあるのを何枚でもいいんですが、分けてもらえませんか」

と、二重瞼の眼を上目使いにしていった。広い額と反り気味のあごに、聡明で意志の強そうな印象を受けた武は、たじろぎながらも職人気質のぞんざいな口利きを改めなかった。
「いったい何に使うんだね。遊びに使う紙じゃないよ」
「水墨画です。昨日買った紙は墨の乗りもぼかしもよくて、お値段も格安だったものですから、たくさんほしいんです」
「ほう、墨が乗ったかね。そうかね。」

水墨画家に認められ嬉しくなった武は、店内に招き入れ椅子をすすめた。

深沢百合と名のった彼女は、美術大学で水墨画を専攻し、卒業後に同期生たちと制作集団「松煙の会」をつくって四年、のれんや風呂敷の下絵なども描くアルバイトをしながら勉強していると語った。目の下に淡い隈を浮かべて口紅もつけず、半袖の白い上着と洗いさらしたようなジーパン姿から、髪を長くしているのも美容院の費用を節約するためかと推測した。紙を求めたときの一途な眼差しが優しくなり、青白い素顔の微笑がまぶしい。武は和紙に刷った名刺を渡し、紙の送り先を書きとめた。

物産展から帰った武は、使えそうな紙を十枚送った。「試し漉きだから進呈する」とメモを入れておいたのに、折り返し現金封筒で代金をよこしたが、同封されていた手紙を読んで唸った。
「……平家物語に『白薄様、ごぜんじの紙、巻き上げの筆、鞆絵書いたる筆の軸』と書かれてある修善寺紙を手にして感激しました。水墨画は紙に命を託します。その紙漉きの作業を描かしてください。和紙漉きを五景か七景の連作にして、来秋の展覧会にと思っています。就きましては十一月から来年四月まで間借りできる家が、須藤様の近くにないでしょうか……」

驚きからさめて、百合の向こう見ずな依頼が武への深い信頼によるものだと思うと、ひとりでに顔がゆるんだ。

武はおふくろの律に手紙を見せていった。
「紙に命を託した絵が入選したら、おれの紙も評価されて注文がくるかもしれん。和紙を使う美術家とのつきあいも悪くはなかろう」

律は、歳はいくつか、独身かと聞いた。二十七、八ぐらいで独身、と推測で答えると、「ふうん」と鼻を鳴らし、
「七十の年寄りが絵になるずらか。物好きな人もいるもんだら」

と肩をすくめて承知した。商売抜きでも百合をまねきたい心情を律に見透かされた。

知人の不動産屋に相談したら、「奥の院」へいく「いろは道」の湯舟に、平屋の貸し別荘が空いていた。三部屋あるから一室はアトリエにできるだろう、金額はこれこれと電話したら、契約金を送るから須藤武名義で借りてほしいと頼まれた。別荘は広葉樹の木立ちのなかにあった。隣家とは四、五十メートル離れている。雪柳の生け垣に囲われた狭い庭は、先住者の菜園跡で雑草が茂り、玄関脇の金柑の花に蜜蜂が群がっていた。冬になれば達磨山下ろしの季節風が雨戸をたたき、梁をもきしませるにちがいない。夜は闇につつまれる。一人住まいで怖がらねばよいがと案じたが、手続きをしてやり十一月を待った。

百合が越してきた日は、桂谷八十八ヶ所の恒例巡拝日で、紙谷の里を白装束の人々がめぐっていた。鍵を渡すために別荘で待っていると、赤い小型車に三人の女が乗り、引っ越し専用のトラックを従えてきた。荷物おろしは、トラックの運転手、助手と百合の友だちもいるし、足も悪いので手伝わないで帰った。

翌日の正午過ぎに、百合は武が渡した地図で訪ねてきた。武と律は納屋の裏庭で、楮や三椏を蒸す大釜と湯沸かし釜のかまどを、こねた赤土で補修していた。赤土に手を汚している多恵を紹介すると、
「百合姉さんです。おばあちゃんとお父さんのお伝いをしていたの。えらいわね」

多恵の前にしゃがんで愛想をいった。多恵はまじまじと見つめていたが、いきなり百合の頬に赤土をなすりつけた。
「こらっ、やったなあ」

笑い声で叱られた多恵は律のそばに逃げた指先に赤土をつけた百合に迫られると、多恵は律の広い腰まわりを歓声あげて逃げる。律がおろおろして、
「もう、よしな。お昼にしよう」

といって多恵を抱きとめた。

分家の武は、昼飯だけ律が住む本家で食っている。本家の兄夫妻と姪、甥は会社と学校へ行き、日曜・祭日以外は律だけになるので甘えている。

律は鮎の甘露煮をだした。狩野川の落ち鮎を二、三十尾わけてもらい、素焼きして緑茶で煮てから甘露煮にして、正月用に保存している自慢の品である。
「東京のお嬢さんにゃあ、粗末なお昼で口にあわなかったずら。申し訳ねゃあねえ」

食後に、律が骨ばった手を膝に重ねて恐縮すると、百合は首を横に振っていった。
「おらは、東京のお嬢さんじゃないに。信州の農家の娘だすけ、気ば遣わんでください」

武は噴き出した。百合の方言に驚き口をあけている律がおかしかった。
「コオー、イコー、コオー、イコー」

百合と律の間で柿を食っていた多恵が、不意に百合に向って叫んだ。ダウン症で生まれて五歳になる多恵は、舌が厚く言語にも障害をもっている。百合は当惑して武と律を窺った。
「多恵、お姉さんは、お仕事だに。この次にすべえ」
「わたしなら、時間はありますが」
「いいんだに。この子は、二つでおっ母を亡くして二重に不幸せな子だもんで、ついつい甘やかして、人様のご迷惑がわかんねゃあ」
「多恵ちゃんは、なんといわれたのですか」
「鯉へ餌くれに行こうってゆったずら。二十分ばか行くと、田に水を引く堰があってな、そこに武と入れた錦鯉を見せたゃあずら」
「鯉に行こう、だったの。いいわ、多恵ちゃん、行きましょう」
「いいのきゃあ。それじゃ餌ぁつくるか」
「オーサ(餌)、オーサ」

多恵は台所へ向う律を追った。
「ご迷惑をかけてすまん。川べりの道で軽トラックじゃだめだから、農作業用運搬機の荷台に乗ってもらいます」

武は百合に会釈して、自宅の車庫へ立った。いつもは運転席で多恵を抱いていったが、今日は荷台の百合にあずけてみよう。指が短く握力の弱い多恵は、そばで支えてもらわないと揺れに転がってしまうのだ。

向こう岸まで七メートルの堰は、堤防の上部の幅が狭いので、両端に鉄棒の柵を立てて有刺鉄線を巻き、立入り禁止にしてある。武は、家から持ってきた太鼓の撥ぐらいの樫の棒で、鉄棒を間をとって叩いた。
「コーン、コーン、コーン」

乾いた音が両岸の若い楓の紅葉をそよがせて流れる。水深は堤防ぎわの二メートルからだんだん浅くなり、上流に飛沫をあげる瀬が見える。土手から水中へ板の階段をつくった餌撒き場には、多恵と百合が降りていた。鉄棒を叩きつづけると、蒼い水面に長短幾条もの金銀紅白の帯が浮かびあがり、さざ波をたてて餌場に集まりだした。
「きれい、錦の帯だあ」

百合が歓声をあげた。
「オーデ、オーデ」

多恵が喘ぐような声で呼び、ビニール袋のパン屑を撒きだした。彩りの帯は小鯉の列で餌場に着くとたちまち算を乱し餌を奪いあう。大鯉は潜ってきて餌を吸いこんでは潜る。
「アー、オトー。アー、ババー」

多恵が指をさして鯉の名前を教えている。白肌に竜に似た墨斑を背負っているのにオトー、墨肌のなかに緋模様があり、うろこに影の縁取りをしているのにババーと名づけて、多恵におぼえさせた。三年まえに入れた尺鯉で、多恵はこの二尾を見ると安心する。鯉は餌がなくなると、あっという間に姿を消す。

武は二人を農道に呼びあげた。黒い毛糸のトックリセーターにジーパンの百合は、今日も髪先を胸元に下げている。荷台に多恵を乗せると、百合はタイヤに片足をかけ武に尻を向けてまたぎ乗った。丸い尻を目の当りにした武は息をのみ、狼狽した。運転台に乗っても眼に残った。

本家に着くと、律は納屋のそばの水路で沢庵にする大根を洗っていた。多恵は百合が抱きおろしてくれた。
「できゃあのが居たずら」

律がのばした腰を叩きながらいった。
「オトーもババーも見ました。あの錦鯉、正式にはなんというのですか。」
「うらも、よく知んねゃあが、黒に緋色のが日影写りで、白に黒模様のが変ありものの九紋竜というらし」
「オトーが変わりものの九紋竜ですか。面白い名だこと。わたしも和紙の白に墨使いだから、変わりものの部類かなあ」

百合がふざけると、律は、大根を振りまわす多恵を制して、
「この世は、みんな変ありものだら。楮だって黒皮、青皮、白皮と剥がしたり晒したりしねゃあ真っ白な紙料になんねゃあに」

といって笑い、ほつれた白髪を掻きあげた。運搬機を車庫に入れてもどると、女たちは濡れ縁で茶を飲んでいた。
「お先にいただいています。」

湯飲みを手にした百合が腰を浮かした。武は、律が注いだ湯飲みを立ったまま取った。
「あの鯉、どうして放流なさったんですか」

武は「ほら、きた」と内心苦笑した。百合に必ず聞かれるだろう。自慢できる動機ではないから、鯉が好きだからと答えればいい。武は運搬機を運転しながら考えてきたのだった。なぜ好きかと問われれば、泥水飲んでも鯉(恋)は鯉(恋)だからなと煙に巻こう。
「多恵の友だちをよう、入れてやったもんだ」

律が先に口を出した。
「つまらん話はするなよ」

武は軽く釘をさして水路にきた。律が適当に話してくれればよいので、意識して席をはずしてきたが、藁のたわしで大根を洗い、流れる泥水を見ていると、おれの濁った半生を百合に語るかもしれないと心配になった。

律は、おそらく足の話をするだろう。

武は高校時代からオートバイに狂って、何度も警察の世話になった。背が高くて眼尻の下った顔つきだから、警察は「顔に似合わぬ悪がきだ」と、身柄を引き取りにいくといわれた。大学二年の冬、天城旧道で乗用車と衝突しそうになった武は、原生林の谷に突っ込み、右大腿部の骨を砕いた。威勢を生きがいにしていた武は、不自由な歩きを人目にさらすのが厭で大学をやめた。この事故がなければ、紙漉きをやる武ではなかったと、律は眼を細めていうに違いない。

武の兄は紙漉きを継ぐ気がなく会社に勤め小学校の先生と結婚した。失意の武に小遣いを渡し、冬場の紙漉きを手伝わしていた父親は、裏の畑に平屋の家を建ててやり、武を後継者にしようとしたが、新築祝いの一月後に急逝した。武を一人前にするには苦労したと律は師匠面をして笑うだろう。

紙漉きは一人だけではできないから嫁を探したが、冬の水を使う手作業が嫌われ、やっと三十二歳になって二つ年上の人と結ばれた。嫁はダウン症の子を生み憔悴した。武は飲んだくれて諫める嫁に手を出した。胃潰瘍に苦しんだあげくに胃癌で亡くなった嫁がかわいそうだったと涙を滲ませ、しかし、人を傷つけて威張る悪がきの根性を嫁が引き抜いて逝ったのか、武は変ったというだろう。

多恵を抱えた武は、紙漉きの季節以外の月日をタクシー会社で働きたいから、多恵の面倒をみてくれと相談してきたが、田畑の仕事があるので断わった。腹を立てた武は川べりを歩き堰にきた。かわせみが小魚をくわえてとびあがるのを見て、ここに錦鯉を泳がせたら息抜きの場所になりそうだと思った。数日後に多恵を抱いてきて、小鯉を十尾放した。多恵は、水面を泳ぐ赤、白、黄色に手足をばたつかせて喜んだ。ダウン症の子は短命だと聞いていた武は、多恵が喜ぶならばと鯉を入れだした。「武は変ありものの九紋竜だら」と苦笑して、律は語り終わるだろう。

濡れ縁から笑い声が聞こえてくる。律にも多恵にも快く受けいれられた百合に安堵した武は、別荘を借りてやったときから秘めてきた好意が大きくふくらんで、洗った大根の白い肌をじっと見た。

手漉きの季節は、十一月の楮伐りから始まる。百合の写生もスタートした。

女三人は近道して楮畑に登った。武は農道を運搬機できた。山肌の楮畑からは武の家の屋根も見える。春に一株から二、三十本も出る新芽の半数を芽欠きして成長を助けた楮は、三メートルあまりに伸びて林立している。

百合はジーパンが好きなのだろうか相変わらずで、緑のジャンパーと首にマフラー、肩から画板をさげている。多恵は百合からもらったスケッチブックをセーターの胸にしっかりと抱いている。角刈りの頭にねじり鉢巻きをした武は、律の伐り始めの儀式を待った。
「皮が命の楮は、すぱっと伐ってやらなきゃあなんねゃあ」

野良着に姉さんかぶりの律は、片膝をつき草刈り鎌の半分もない刀身の鎌で、足もとの株から一番太い楮を伐り倒した。
「来年も、いっぺえ芽よう出しておくれ」

律は切り口に滲みでる乳白色の液を指先につけて合掌した。武は笑って見ているが、百合も多恵も律に従った。
「毎年、毎年、いっぺえ芽を出す楮を馬鹿にして五十年、百年の樹を伐りまくっていりゃあ、きっと天罰にあたる。楮は日本全国どこででも育つずら。五十年の樹い伐って五十年待つより、毎年の楮だら」が、律の持論である。武が伐り倒していくと、律が倒された楮の小枝を払い、棒にして荒縄で縛る。払った小枝も集めて束ねる。百合は、もう一度、一株の十数本を伐ってみせてくれと律に頼み、素描した。描き終った後は多恵の絵を見て、手を取って教えていた。

午後からの仕事だったので、達磨山連山の稜線が茜色の空にくっきりと浮かぶのが早かった。山峡の晩秋は、陽が落ちると寒気が空からかぶさってくる。女三人を引きあげさせた後で、武は、転がっている束を運搬機で運び、納屋のそばの水路に切り口を浸けておく仕事にかかった。最初の荷を下ろしていると律がきて、
「夕飯をすすめたけんど、帰やってしまった。いいのかなあ」

といって武の顔を窺った。
「これから半年ものつきあいだから、好きにさせたらいい」

きっぱりと応えたが、待っていたら車で送るつもりの願望が消えて肩を落とした。

和紙作りの工程で一番にぎやかな作業は、大勢の手をかりてやる黒皮剥ぎである。三尺に切りえた楮の束を大釜に立て、長桶をかぶせて蒸す向こう鉢巻きの男衆を描いた百合は、似顔絵を注文されて困っていた。
「多恵ちゃんは、お弟子さんきゃあ」

百合のそばを離れない多恵は、筵に座って黒皮を剥がす女衆にからかわれた。納屋の軒下は、干し竿に振り分けて干される黒皮の束に囲まれていく。

夕方、全員に酒食をだして労をねぎらうのも恒例で、座興に手漉き唄がでる。手拍子を合わせていた百合に、男衆から指名がいった。
「いやだあ、いま覚えたばかりですよ。わたしは、だめ。おばさん、助けて」

悲鳴をあげればあげるほど許してくれないのが酒宴である。律も嫂も「お次の番だよ」と催促に加わっている。

紙になるなら 色好紙よ
蒸され 晒され 叩かれたとて
主に漉(好)かれりゃ ねやの窓
てもさっても そうじゃないか
そうじゃないか

百合が直立不動の姿勢で真っ赤になって歌い終わると、拍手喝采を受けコップ酒が集中した。武は、素直で媚びない百合に感心した。特別にかばえば「二人は深い仲」と、一夜にして集落中の噂になるので、客扱いに終始した。百合はふらつくこともなく、湯舟の叔母の車で帰った。

寒風に晒されている黒皮は、風と揉みあう音で乾燥具合がわかる。風にからからと鳴りだすと被皮掻きにはいる。乾燥した黒皮を三日間水槽に浸けると、黒い表皮が剥がれかかる。薄氷を割って水槽から引きあげ、表皮を掻き取って白皮にする。

その日は、前夜からの荒れ模様の天気が続き、吹き降りに雷鳴とみぞれや雹が混った。

越してきて一月になる百合は、カッパを着て、黒い大きなごみ袋に画板を入れてきた。はれぼったい目をしていて、心なしかいつもの陽気さがない。

納屋の片隅に一坪の床をあげた作業場は、板壁の隙間風で寒く、水槽からあげた黒皮をつかんでいると手がかじかんでくる。暖房を入れると表皮が乾くので、小桶に入れた湯で手を温めては作業を続ける。藁草履を裏返しにくくりつけた台に黒皮を乗せて、刃先を鈍らせた包丁で押さえリズミカルに扱く律は、着ぶくれて鼻眼鏡だ。見栄えがよくない姿を百合は視る場所を移して何枚も描いた。カメラなら動く人物の一瞬を影像できるが、作業する律の一つの動作を描くのだから、画家の眼もカメラになっているのかと感心した。
「多恵ちゃん、オトーを描いたの。うまい、うまい。オトーに見せたら」
「ヤーダ」

多恵は画帳を閉じてしまった。
「おこたで、絵のお勉強をしようか」

百合は、多恵をさそい寒い納屋から逃げた。

午後になっても吹き降りはやまない。昼飯後に、軽トラックで百合を送ることにした。律が大根や人参、芋などの野菜をビニール袋に入れ、荷台に乗せた。

別荘に着くと、助手席を降りた百合が、
「コーヒーでもいかがですか」

と誘った。三部屋をどう使っているのか興味もあって、武は応じた。荷台の野菜袋を下げて居間に入ると、エアコンの生暖かい風が流れはじめていた。百合は掘りこたつの毛布をはねあげ、肩まで入れてコンセントを差しこんでいる。他人の男性に見せる姿態ではない。武は苦笑して眼をそらした。
「すみません。少し待ってください。」

野菜袋を受け取った百合は、台所にいった。
「今朝ね、庭の枯れ草が踏まれているのを見つけたの。野良犬かしらね」

台所から、こたつの武に問いかけた。
「さあね、けもの道をつけるのは狸かな」
「いやだあ、今夜も来るのかなあ。昨晩は風のせいか、屋根に物が落ちたり、天井が鳴ったり、夜中の物音がひどいの。犬もよく吠えるし、心細くなると筆がとまってしまう。おかしいでしょう」
「夜中に犬が激しく吠えるのは、畑を荒らしにきた猪か鹿の臭いを嗅ぎとって威嚇しているのさ。絵を見せてくれないかな」
「お見せできるものではありません」
「奥の部屋かな」
「ええ、でも、だめですよ」

断りながらも台所から離れない。武はアトリエになっている部屋に入った。雨戸が閉められたままで暗い。蛍光灯の紐を引いた。

六畳間には三畳のじゅうたんが敷かれ、その上に半畳ぐらいの黒いフェルトをはった板が置いてある。板のそばに大小の筆を下げた筆架と何種類もの硯、水滴、梅皿などが並んでいる。絵は、鯉を描いたものが床の間に数枚あった。波立てを水面に出して泳ぐ鯉、尾筒を曲げて跳ねている鯉、餌を求めて大口をあけている鯉で、紙漉きのは一枚もない。
「絵は鯉ばかりだね」

居間にもどった武は、コーヒーを一口飲んでから糺す口調でいった。
「だから、お見せするものはないといったでしょう。紙漉きは、まだ素描の段階です。鯉のなかに、変わりものの九紋竜がいたでしょう。ああんと大口をあけていたオトーが」

武はこたつのなかの両足で、からかう百合の脛をはさんだ。百合は足を逃がさないで頬を染め、軽く睨んでとがめた。百合の足から血潮が流れこんでくるかのように身体が熱くなった。百合がうつむいたので悪戯をやめた。
「いやあ、久しぶりのコーヒーだった。美味かったよ。じゃ、帰るわ」

武が居間を出ようとすると、百合がいきなり体当りしてきて背中に抱きついた。
「どうした」
「怖くって、眠れない……」

武は向きを変え、百合を引き寄せた。武の肩に額をつけた百合は身体をこわばらせた。
「春先までは、西伊豆の季節風が山を越えて吹きおろすから、昼も夜も騒々しいが、山里の音に慣れれば平気になるさ。真夜中でもよいから、怖くなったら電話しろ。多恵と二人だけだから遠慮はいらん。一晩中でもつきあってやるよ。いいね。」

百合の髪に口づけしてから唇を合わせた。眼を閉じた百合の胸に手をあてると、「だめ」と身体をよじり台所へ逃げた。

車にもどった武は、みぞれをはじくワイパーを見つめ、高鳴る鼓動を静めた。信州の山育ちが小獣の徘を怖がるわけがない。夜の孤独におびえているのは、電話をかけ、訴え甘える恋人がいない証だ。不安なく絵を描かしてやろう。武は、足を痛め、妻を亡くし、多恵をかかえて、女性への愛に臆病だっただけに、すがってくれた百合に感激した。見送りに姿を見せない百合へ、クラクションを二回鳴らして車を出した。

唇を合わせてから、百合は快活になった。深夜の電話は一度もなく、武の方から工程時間の連絡をして励ました。絵にならない工程も和紙漉きのイメージをゆたかにすると思い、白皮の二回晒しと乾燥、煮熟と灰汁抜き、塵とり、叩解、三椏の皮削ぎ、トロロ葵の根から練りを採るのまで見学させた。

最初の紙漉きの朝、多恵を連れて本家にいくと、百合は律と茶を飲んでいた。漉き場は納屋の奥を仕切り、明かりとりのガラス窓を漉き舟と同じ高さにはめこんである。漉き舟は立ち漉きができるように木の枠に乗せ、武のと律のを並べている。簀桁を吊るした天井の力竹をしなわせ、乳白色の紙料を漉く律を、百合は窓ぎわに立って描きはじめた。多恵も律の舟の横でなにを描いているのか、しきりと鉛筆を動かしている。

武は、律に気兼ねなく百合へ微笑を送った。昨夜、不意に律がきて、百合とのつきあいの深さを糺されたので、隠し立てなく話したのを百合は知らないはずだが、平然と微笑を返す。茶を飲みながら律が話したのかもしれない。律がきたのは、湯舟の叔母から電話があったからだった。
「別荘に武の車が何度か停まっているのを見た人がいて、噂が流れている。女に誘惑されて、後で責任を取らされるような軽はずみをしないように、武に忠告したほうがよい」という趣旨の電話だったらしい。
「お互あ好きになったらば仕方がねゃあが、百合先生はこれから大成なさる人だもん、遊び心だったら承知しねゃあぞ。多恵もすっかりなついて、ユーネエタンを見ねゃあと、一日が終わんねゃあずら。紙漉き職人の分をわきみゃあて、支あてやれるか」

律は眼を光らせて武の愛情にたがをかけた。武は、多恵を育て、百合を助け、独身を通すつもりだといって律を安心させた。
「正月はどうするね。東京に帰ゃあるかね」

描き終えた百合に、濡れ紙を紙床に剥がした律が、一息入れてたずねた。
「大晦日から一週間、二人の友達がきて温泉三昧だそうですから、にぎやかになります」
「そりゃあ楽しみずら。餅は武に届けさせるから買わねゃあで」
「ありがとうございます。さ、多恵ちゃん、お勉強しよう」

百合の教えで、クレヨンの色を覚えた多恵の絵は、写生する対象の形も色もとらえるようになってきた。多恵も個別に援助すれば、健常な子どもにも負けない能力を発揮できるのだと、武は光明を見いだしていた。

百合の和紙作りの素描は、脱水した湿紙を桂の板に張りつける天日干しで終った。描き終えた百合は、律の手助けを受けながら馬毛の刷毛をつかい一枚の湿紙を張った。
「記念の紙として一生大事にしますから、この紙をください」

百合は、律に刷毛を返していった。

年の瀬を四日後にひかえ、武たちは本家で餅を搗いた。夕飯の後で律と嫂と姪が、多いの少ないのと騒ぎながら百合への餅をみかん箱に入れた。武は、餅のほかに五万円をふところにし、記念の紙も持って別荘にきた。転居で金を使い、友だちを迎える費用にも困っているだろうと案じ、九紋竜の絵を買えば百合の矜持を傷つけないで金を渡せると考えてきた。
「こんなにたくさん、嬉しい。友だちも喜ぶわ。一ついただこう」

みかん箱を開けた百合は、丸い小餅を何もつけずに食べた。夕食を抜いていたのかもしれない。武はこたつ越しに手を伸ばし、百合の口もとについた白い粉を払って笑った。

絵の商談は、額縁つきを条件に成立した。「きびしくて、友だちに借りようかと悩んでいました。よくわかったのね」

百合は武の胸に顔を押しつけていった。

百合は松の内を過ぎてからアトリエにこもり、「和紙漉き七景」の水墨画にかかった。律は週に一度、野菜や手料理を届けさせ、そのとき多恵を連れていくように命じた。百合は、多恵を迎えるたびに多恵の頬を両手ではさんでいった。
「ごめんね、ユーネエタンは、お仕事なの。たくさん絵を描いて、待っててね」

多恵は、百合と会える日を数えて暮らした。律の深慮遠謀で多恵を連れているから、いつも玄関で別れていたが、一度だけアトリエに入れてくれた。絵は、楮を伐る年寄りの農婦が描かれていた。塗り重ねる油絵とちがい一筆の流れにも墨の濃淡がある。勢いよく伸びた一株の楮、鎌が身体の一部になっている強い腕の線、農婦の微笑……いまにも伐られた楮が倒れてきそうな絵である。
「楮に鎌を当てて伐る一瞬だけど、むづかしくて、おばさんに笑われそう」

謙遜する言葉を百合自身の笑顔が否定していた。

二月末になって、久しぶりに百合がきた。冷たい西風の強い昼下がりで、武と律は、水槽に沈めた笊に三椏の白皮を一本づつ浮かし傷や付着したごみを取り除いていた。

百合は、七景を描きあげたので、見にきて不自然なところを指摘してほしいと頼んだ。「指摘だなんてとんでもねゃあが、見せてもらおう。二、三日内に三人でお祝いにいくべえ。ちいっと痩せちまったようだがなあ、お疲れさんでしたねえ」
「いいえ、お米に野菜、煮物まで毎週いただきましたから、このとおり元気です」

胸をたたく百合の下瞼には、濃い隈が浮きでている。
「コオー、イコー。コオー、イコー」

百合にまつわっている多恵がせがんだ。
「そうね、今年になって行っていないものね.。でも、オトーはお仕事だから、多恵ちゃん、歩いていけるのかなあ。いける?じゃいこう」
「お疲れなのに、いいずらか。じゃ、多恵、オーサ、オーサだ」

律は多恵の手を引いて台所へ連れていった。二人だけにしてやる律の心遣いだろう。
「おめでとう。今夜、乾杯にいきたいな」

武は百合と固く握手して希望した。百合はうなずいて、
「紙と墨の合作ですから」

といって微笑んだ。

百合と多恵が手をつないで出かけてから一時間あまり経ったろうか、武は、遠くで誰かが叫んでいるような声を耳にした。喧嘩騒ぎか、みっともないと舌打ちして水槽を離れ、庭先の戸田街道への下り口に立って耳をすますと、「たすけて!たすけて!」と女が叫んでいる。
「おふくろ、誰か助けを呼んでいるから、行ってみるわ」

律に声をかけて、戸田街道に下りた。叫びは湯舟へいく紙谷橋の方角から聞こえる。街道を五間あまり走って別れ道の角にきた武は、橋の手前に倒れている百合と多恵を見た。一瞬、背筋が凍った。
「どうしたあ!どうしたあ!」

武は、多恵の事故だと直感して走りながら叫んだ。百メートルもない距離が遠かった。
「どうした、しっかりしろ」

多恵は仰向けになって喘ぎ、百合は突っ伏して背中を波打たせている。
「多恵ちゃんが、水に落ちた。助けて」

百合は頭をあげ、かすれ声で訴えると、また伏せた。
「わかった。多恵を先に連れていくぞ」

多恵を抱きあげると、濡れた衣服から冷たい水がしたたった。水槽で仕事をしていた律は慌てた。本家の居間で衣服を剥ぎとり、冷えた身体を毛布でくるんだ。武に、ポットの湯をバケツに入れ、ぬるま湯にして持ってこいと指示した律は、「ババー、ババー」といって泣く多恵を横抱きに抱いて足を湯に浸け背中を強くこすりはじめた。次は百合だと土間をとび出し庭先までいくと、百合は街道から庭に上る道の石垣にもたれていた。肩を貸して土間まで連れてきた百合は、律を見て崩れ落ちた。
「申し訳ありません。わたしの不注意でした。多恵ちゃん、ごめんなさい」

土下座した百合を、武は抱えあげた。
「多恵は大丈夫だ。着替えをどうしようか」

肩を貸したとき、百合のセーターから水が滲みでた。百合の身体も冷えきっているはずだ。律が、とりあえず自分の着物でと着替えをすすめたが、百合は帰って着替えると固執した。武は軽トラックで送ることにした。

助手席の百合は、眼を閉じて背もたれに身体をあずけ、身震いの発作を繰り返した。寒さで刻々と体力を消耗している百合に経過を聞くどころではなく、夢中で車を飛ばした。

別荘に着いて、着替えた百合は事の顛末を話してくれた。こたつの台に両肘をついて顔をおおい、ときどきすすりあげた。

百合が鉄棒を叩き、多恵は餌を撒きだした。多恵は「オトー、ババー」と呼び、しゃがんで片手をのばした。百合が危ないと感じたとたんに水中へ落ちた。百合は階段を駆けおりて飛びこんだ。水深は肩までだったので、もがいて浮き上った多恵を餌撒き場に押し上げようとしたら、足がへどろに潜って頭まで沈んだ。多恵の着物をつかんで餌撒き場に這いあがり、引きあげた。ぐったりしている多恵の顔を横向きにしておなかを押すと、水を吐いて泣きだした。百合は多恵を抱いたり背負ったりして走ったが重くて何度も転んだ。紙谷橋まで行けば人が通ると思い必死できたが、力尽きて助けを求めつづけた──経過を聞いて百合に落度がないのに安堵した。
「鉄棒を叩きながら、多恵を餌撒き場で遊ばせてきたのはおれだ。流れはないし、大人が立てる深さだから、落ちたらすぐ助けられる。落ちたら落ちたで、多恵の経験になると思って、とくに注意はしてこなかった。手のとどきそうなところへ九紋竜か日影写りが寄ってきたのだろう。助けてくれてありがとう。大変な思いをさせて申し訳ない」

武はこたつから出て正座し、百合に頭を下げた。百合は、やはり私の不注意でしたと繰り返し詫びた。

夕方から軽い咳をしていた多恵は、夜中になって咳こみ苦しがった。持病の喘息がでてきた。多恵がもがき、百合が飛びこんで舞いあげたへどろの濁り水を飲んだに違いない。本家から律を呼んで相談し、救急車で入院させた。発作が重積状態になった多恵は、一夜明けた十時過ぎに息を引き取った。病院は解剖して死因をくわしく調べたいと要望したが、武は断った。死因よりもダウン症の身体を切りきざんで調べるのが本心だ。多恵が心不全になったのは、心臓にも欠陥があったからだと自分に言い聞かせた。

一緒に看取ってくれた律は、「楽になったか」と涙を流したが、泣き崩れなかった。武と同様に、いつの日かはの覚悟を胸の隅に秘めていたからだろう。

武は多恵の死を百合に連絡しなかった。連絡すれば動転し、自責の念にかられ突発的な行動をとると考えた。また、密葬に列席させれば針のむしろとなり、病気になりかねない。葬儀後に律もまじえて、多恵の死亡に百合の責任がないことを納得させ、三人で供養すればよい。律も武の考えに同意した。

翌日の通夜に湯舟の叔母がきて、律に声高にいった。
「うらは頭にきて、昨日の昼過ぎに別荘へいった。川っぷちで不自由な子の手え離すたあ、おめゃあが殺したと同じずら、どう責任を取るのかと怒鳴りつけてやった。多恵が死んだのも知らにゃあで、真っ昼間から寝巻き姿だったに。過失致死だら。責任を取らさにゃあ多恵が成仏でけん。通夜にも来ねえたあ、呆れはてた絵描きずら」

武は愕然とした。律は顔色を変えた。
「千代さん、おめゃあ、なんてことを。武もうらも、餌撒き場じゃあ手を離して遊ばせてきたもんだ。多恵は百合先生に助けられたが、持病のせいで逝っただに。百合先生への悪口は許さねゃあぞ、多恵はこの四カ月、一番楽しい日々を過ごした。多恵の絵を見ろ、うらの似顔絵をあんなに上手に描くようになった。ユーネータン、ユーネータンと慕ってな、顔を見ねゃあと、一日が終わんねゃあ子だった。千代さん、おめゃあ多恵を須藤家の恥じだと陰口をたたいたろうが。おめゃあが口出しできることじゃねゃあわ。武、百合先生に電話して、親戚みんなが感謝しとるって伝えろ」

律は涙をあふらせて怒った。叔母は沈黙した。武は百合に電話をかけた。通夜を終えたら律と二人で行くと伝えたかったが、通話中である。通夜を終えて電話しても通話中である。ショックで寝込んではいないようだ。東京の友だちに苦衷を訴えているのだろう、明日午前中の葬儀が済むまでそっとしておいてやろうと思った。

密葬を終えて兄も嫂も本家に帰り、武と二人だけになるのを待っていたかのように律がいった。
「武、夕飯をかねて百合先生と三人で供養したらどうずら。迎ゃあいってくれんか。湯舟の千代に文句いわれて、さぞ辛かったろうなあ。うらが直にあやまるから」

同じ思いに駆られていた武は、すぐに腰をあげた。百合が玄関にでてきたら黙って抱きしめよう。百合が冷静になるまで抱きつづけようと、車の中で決意して別荘にきた。

玄関のベルを二度三度押したが応答がない。ノブを回すとドアーが開いた。散歩かと思い、
「百合さん、須藤だよ」

と声をかけて上った。こたつで待たしてもらおうと居間に入った武は、わが眼を疑い呆然と立ちすくんだ。なにも無い。顔から血が引いた。台所、寝室をのぞいてもがら空きになっている。アトリエも用具一切なく、床の間に一枚の水墨画があるだけだ。絵の端に色好紙の便箋と別荘の鍵が乗せられてあった。
「どうお詫びしてよいかわかりません。武様からのご連絡をお待ちしましたが、あろうはずがないと諦めました。三、四月分の家賃は後日にお送り致します。過失致死として告訴なさってください。罪は一生かかっても償います。おばさまには合わす顔がございません」

便箋の書き置きを手にした武は、後悔の激しい渦に呻いた。水墨画には記念にするといった紙に多恵が鯉を抱いて微笑している。
「百合……」

誤解の深い傷を負わしたまま帰してしまった。多恵の死を誰よりも早く伝えに来るべきだったのだ。武は呵責にしめつけられ、こぶしを畳に打ちつけて号泣した。

武と律は、その日に百合に手紙を書いた。
「……多恵の死を伝えず、密葬のご連絡もしなかったのは、百合さんを怨んでではありません。湯舟の叔母のような誤解からくる憎しみに、百合さんを苦しめたくなかったからです。しかし、それは間違っていました。百合さんに列席してもらい、多恵の柩の前で親戚一同の誤解を解くべきでした。深くお詫び致します……」

律は書いた。
「……百合先生が多恵にくださった絵は、絵のとおりにお地蔵さまにして、桂谷七十八番札所にまつります。できあがったらご連絡をしますから、泊まりがけで、ぜひお出でください。多恵もユーネエタンをお待ちしていると思います。ババーもお迎えがくる歳ですが、百合先生におわびしないと、多恵のところにいけません。どうぞ、どうぞお許しください」

「二時半を過ぎた。やはりだめだったか」

武は腕時計を見て諦めた。胸いっぱいにつまっていた期待が霧散して虚ろになった。断念したからにはいさぎよく立ち上りたいのだが、虚脱して動くのも億劫になった。

風に藪椿が騒ぎ、桂も桜も枝を踊らせている。百合は、まだ武の誤りを許していないのだろう。だが、一時半と約束したとき、武の誘いが強引だったとしても、「多恵ちゃんと散歩した川沿いの畦道を上っていきます」と道筋まで指定したのはなぜだ。詮索しても推測だから百合の本心はわからない。わからないが、百合が遠くの人になってしまったのは確実だ。武は立ち上る気になって腰をあげようとしたが、太股がしびれていた。膝を伸ばして揉んでいると足音がした。おふくろが連絡にきたのだろうと呼びかけを待った。足音が近づいて、武が横目でとらえた姿は、黒いマフラーで頭も顔もつつみ、ベージュ色の立て襟コートを着ている。阿弥陀如来の碑に向っていく後ろ姿は百合に間違いない。
「百合!」と叫び、飛び出したい衝動に駆られたが、胸がつまって声にならず、身体も金縛りになった。待っていてよかったと噛みしめる喜びのなかに小さな怒りも湧いた。待たされたお返しに意地悪をしたくなった。気づかれていないのを幸いに、百合の挙動を見ることにした。

百合は、碑に合掌してから幼女地蔵にきてひざまずき、ショルダーバックから取り出したものを地蔵の首にかけた。千羽鶴だ。
「多恵ちゃん、かわいいね」

百合は、地蔵の頬を両手ではさんだ。
「ごめんね。オトーは怒っていたでしょう。ユーネエタンは、わざと遅れてきたのよ。桂橋から引っ返して、修禅寺にお参りして、いろは道をゆっくりと来たの。オトーとババーに会うと帰してもらえないからね。本家に泊まるのは厭だし、多恵ちゃんのおうちでオトーと二人だけになるのもできないわ。いろは道をたどって来たらね、紙谷橋への別れ道までが、『色は匂へと散りぬるを』なのよ。泣いちゃった。来年は、奥の院まで行ってからここに来るわ。毎年、そっと来るからね、待っててね」

百合は語りかけながら地蔵の頭をなでた。武は静かに立ちあがって呼びかけた。
「ユーネエータン」

百合はぎくっと肩を起し、耳を疑っているようだったが、身体をよじって武を見ると、「ああっ」と叫んで地蔵におおいかぶさった。
「来てくれたね、ありがとう。どう、絵に忠実にと彫ってもらったが」
「ずっと、ここで……」
「あきらめて帰ろうとすると、多恵に引き止められてね。家に行こう、今夜は、おふくろと三人で語りあかそう」
「……」
「こんな時間だ、帰れないよ」
「ごめんなさい。明日朝、仕事があるので、三島から新幹線で帰ります」

武は、地蔵から離れた百合の小脇に手を入れ抱えあげた。帰したくない激情がこみあげ乱暴に抱きしめた。百合は逆らわなかった。唇を合わせると身体をあずけて涙を流した。
「おふくろが首を長くして待っているから、一目だけ会ってくれ。帰りは修善寺駅まで車で送るから」

百合は首を横に振った。
「そうか、無理強いはしないよ。今年、百合の紙を百枚漉いた。それを見せたかったが、後で送ろう。毎年百枚漉いてやると多恵に誓った。百合の百だよ」
「すみません」
「和紙漉き七景、展覧会の評価はどうだった」
「出しません」
「それは残念だな。今年は多恵のためにも出してくれないか。おふくろを連れて見にいく」

百合はうなずいて、武の胸から離れた。バッグからハンケチを取りだして涙を拭き、武の顔を見て微笑した。涙を拭いたハンケチを武の口に当て、着いた口紅を見せた。武はそれを奪ってポケットにしまった。
「おばさんには、手紙を書いてお詫びします。いただいたお手紙に返事も出していませんから、まとめて書きます。じゃ、失礼します」

百合は、武の強い握手を引きずるようにして離し、小走りで橋に向ったが、突然、立ちすくんだ。札所への下り口に律がいた。うわっぱりを着て、首にタオルを巻き、サンダルを突っ掛けている。
「あんまり遅えから、どうしたあかと心配で来てみたんだ。百合先生、よく来てくださった。多恵も喜んだずら。武はどうかしてえる。こんな吹きさらしに引きとめて、冷えたずらあに、さ、家に行くべえ」
「おふくろ、百合さんは明日の朝、用事があってな、これから帰らねばいかんのだ」
「なぜだ、どうしてだ」

石段を下りた律は、百合の両肩に手をかけて揺さぶった。
「ごめんなさい」

百合は両手で顔をおおった。
「地蔵を見に来てもらったんだ。またの機会にしよう」

武は百合に助け舟を出した。紙谷橋への別れ道までが「……散りぬるを」で泣いたという百合だが、毎年くると誓っていた。生きているかぎり毎年きてくれるのだと思って、武は胸が熱くなったのだった。今年は展覧会でも会えるのだ。
「用事ならば仕方がねゃあ。こんど来るときゃあ泊まりがけだ、約束だ。わかった、わかったから泣かねゃあでおくんな。帰あるならうらが下の橋まで送る」

律は、武を一顧だにせず百合の手をにぎり橋のたもとから畦道に入った。武は紙谷橋に上って二人の背中を見送った。武が送るより律の手の温もりが百合の傷を癒すだろう。武は痩せ我慢でなくそう思ったが、振り返りもしない二人に腹立たしくもなった。小雪が散らつく空に、早くも夕べのとばりがしのびよっているのか、修善寺川の下流の葦も二人の姿もぼやけてきた。武はまつ毛についた雪片に眼を閉じ、溶けるにまかせた。

参考文献 修善寺の歴史 小林豊 著

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